2015/09/11

心象スケッチ


修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす


宮沢賢治「春と修羅」より

散歩していて、小さな白い蛾が目の前を横切ったんだけど、それが海を渡る白鳥に見えて、後ろ髪を引かれるような想いで振り返ったけど、そのときにはもう、追いついたのはもちろんただの白い蛾で、それでも残像が尾を引いていた。あれは二重の風景で、自然の方から、こちらに向かって、なにかがやってきた証だろうと思った。

たとえば海を渡る白鳥を見たいと思って、海に行って白鳥を見たとしても、それはこちらから自然を見ているだけで、もしもそこに感動があったとしたら、たぶんそれまでの努力と、その白鳥の風景を通して、その人は違う景色を見ているのだろうと思う。見えているものと、見えないもの。此岸と彼岸。風景は相互に重ならないと、奥行が生まれない。

ある日森で背中に矢が刺さった夢を見た。突き刺さっているけど、自分が透明なので痛くない。
前日に森の急斜面で、軽く転落したときのイメージ編集だと思う。背中から落ちた場所が羽毛布団のような葉の茂みで、かすり傷ひとつなかった。森に守られたような気がして感謝したけど、その逆も起こり得たはずだから。

樹に結んでいたロープが、ほどけてしまった。もしロープではなくて、蔦とか、枝や草に掴まって斜面を降りていたら、もっと慎重になっていたので、転落したりしなかったろう。切れても仕方ないと思っている命綱と、切れるはずがないと思いこんでいる命綱は、強さが違う。

あのときロープがほどけた瞬間と、落ちたときの背中で感じた森の愛情は、心象スケッチとして記憶に留まっている。このイメージを肉体を離れた意識が編集しようとするのは、考えてみれば当然のことで、夢で放たれた矢は、まるで喪神の森の梢からひらめいてとびたつからすのように、二重の風景を貫いた。

森から落ちた帰り道、畑に三毛猫が座っていた。最近ウロウロしている野良猫なのだけど、遠くから見ているだけで、すぐに逃げてしまう。姿をちゃんと見たのは、その日が初めてだった。よく見ると目つきが悪くて、数年前に東光寺で戯れていた、あの写楽の猫によく似ている。ああ、生まれ変わりなのだなと直感した。カメラを持ってくるまで待っててくれて、写真を撮ったら離れていった。あれから姿を見ていない。

時空間がバラバラで、極私的な心象スケッチなんだけど、ここ数日の不思議が、数珠のように繋がった気がした。他人にはうまく伝わらないような他愛のないことでも、心に残るのは理由がある。そのときはよくわからなくても、なんとなく見えてくる宇宙の輪郭がある。



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