2013/02/23

五輪塔

昨日は丈六寺に。静かで人の気配がなく、異時空を見立てるように道の脇に並んだ、苔むした無数の墓、巨大な五輪塔がじつに美しく、石にじっーと見つめられているようで、それがなんとも心地よく、また見られているだけではなくて、声なき声を聞いているような、耳から魂が透明になっていくような、そんな厳かな気持ちになった。奥にある撮影禁止の秘仏、巨大な聖観音坐像の無の視線は圧倒的で、沈黙より静かというのか。いささかおおげさなのだけど、天(てん)のけわいを感じたような気持ちに。とくに心に残ったのは苔むした五輪塔に刻まれた「空 風 火 水 地」。なにも言えなくなるような説得力があった。

今朝、気になったので詳しく調べてみたら、日本で最初に考案された五輪塔の墓は、空海のアイディアとわかった。密教の五大体を表すもので、宇宙の根本を象徴するといわれている。一般には先祖の供養塔として用いられ、日本では平安中期からあるとのこと。知らなかった。五輪塔の型には基本があり、空は宝珠の型、風は半月の型、火は三角の型、水は円の型、地は方型。この型(form)があるからこそ、美しいのだと思う。個人的には空と風、水と地に挟まれてツンとつきだした「火」が、全体の微妙なバランスを司っているような気がした。この型がなく、てんでバラバラな形で文字だけなら、心には残らなかったと思う。型は同じでも、大小さまざま、苔のつき具合、その色や、石の朽ち方、風化の尺度がそれぞれ違っていて、そのすべての個性は、統一されている型のおかげだと思う。

自由は「自らを由(よし)とする」と書く。ここで使われる由とは、いわれ、わけ、由緒のことだと思う。自由は欲するままに行動することではなく、自分の価値観を元に行動すること、自らの拠り所を自分自身に置くこと。自分(人間)という型があるから、その元になる価値観や拠り所がある。人間という型(form)からは、人間は断じて抜け出せない。だから美を感じる心があり、美によって人間という存在を超えた視線の主(ぬし)
を感じさせてくれるのだと思う。個性とは自分からは見えない佇まい。出そうと思えば思うほど、なくなっていくもので、本人にはよくわからない生き様のことだと思う。五輪塔は、そういう存在の不確かさやあやうさ、幻性までも含めて、『今、見ているモノは、きみ自身の立ち姿であり、世界の有り様。すなわち、自分を見つめて、その拠り所を探し、ほんとうの自由を獲得せよ』と、今に伝えてくれているような気がする。




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