2015/05/28

記憶の森②



朝から画材一式を持って精霊の森に。ズレを感じていた作品を自分の目で修正した。荷物が多いので川を渡るのが大変だったけど、辿りつくことはできた。椅子を持っていかなかったのに、まさにこの絵の構図のその位置に、ちょうどよい石段があったのには驚いた。まあ座れと、森に迎えられたような気がした。

じっとしてくれている檜の樹は捕らえることはできても、揺れ動く葉を人間の目で捕らえるのは不可能に近い。それでも諦めずに、素直に色を置いていくと、画布全体にニュアンスが浮かんでくる。このニュアンスが森を構成している。この感覚を取り戻したかった。

モチーフが目の前にあると、入ってくる情報量が圧倒的に大きくなる。じっと見つめ続けていると、動かざる物体の周囲に、あるニュアンスが浮きでてくる。静物は死んだ自然ではなくて、物体として生き続けている。人間と違って、樹々や静物は動かないし、沈黙している。太陽のように動かないのに、情報が大きいのは、物体の持つ力が、天体のように周囲に影響を与えているからだと思う。目に見えない小さな粒子が物体を包んで、雰囲気を作っている。動かない樹は森にとって静物なのだけど、内面に持続する時間を蓄えていて、その力が土台になって、森を構成している。見えないはずの精霊や時空の裂け目を人に感じさせるのは、その蓄えられた力が周囲に与えている、大いなる記憶の働きのせいなのだろうと思う。

この森の奥で拾った鹿の頭蓋骨を描きはじめたとき、背景を青や緑にしていた。実際に目に見えている土壁の色とは違うが、素直に出てきた色だった。この色はモチーフ(鹿の頭蓋骨)から漂っていた。この鹿は、この森の記憶を持っていたのだのだなあと、改めて思う。

 

2015/05/25

記憶の森


いろいろ思うことがあって、風景と平行して静物画を描きはじめた。河原で拾った鹿の頭蓋骨に、さあ描いてみろと言われているような気がした。じっと見つめているとよくわかる。こちらが見ているはずのだけど、あちらからも見られている。ふたつの視線がぶつかる空間に、ちょうど画布がある。

静物画はとても落ち着く。気が安らぐ。だけどもうすこし絵を重ねてからの方がいいかなと思っていた。でも今進めている森の絵にズレのようなものを感じていて、それを解決するために、静物を描く必要があった。見ることと、見られること。距離感のことだと思う。

森(モチーフ)は目の前にないけど、記憶のなかにはある。ありのままの森と記憶の森が、重なり合う空間に画布がある。その距離感を、静物は思い出させてくれる。外と内が重なり合ってくると、自分が消えていくのがわかる。その消失点が、自分と世界との膜だと思う。皮膚が外界と自分とを分けているように、意識にも透明な膜があって、見えているものや見えていないものの間で、まるで風に揺られるカーテンのように、呼吸しているという気がする。その呼吸が、自然や物に生きた印象を与えている。



2015/05/02

追憶の森


『私は木々の声をきいた。木々のとつぜんの動きや、そのさまざまな形や、光に対する不思議な魅力などが、森の言葉をふいに私に啓示した。その木の葉の世界は唖の世界であったが、私はその身振りの意味を理解し、その情熱を見て取った』Teodore Rousseau


剣山のお山開きに。長かった通行止めも解除された。剣山は宇宙の書。ページをめくるように、何度でも新しい自分を映してくれる。山を超えて、ブナの森まで足を伸ばそうと思っていた。

山に登るときは石を握りしめる。ひんやりした石のつめたさが、手のひらにこもった余計な熱を逃がしてくれる。ときどきはぎゅっと握りしめる。強く握りしめたり、弱く握りしめたりしていると、大地と会話しているような気持ちになれる。石があたたかくなってきたら、別の石に変える。そうして身体で心を通わせる。

登りはじめてすぐに、青い服を着た女性が前にいた。日本人ではなかった。外国人観光客の多い高野山とは違って、剣山で異国の人を見たのははじめてかもしれない。彼女との差は、自分の影のようにゆっくりと縮まった。大きなヒノキの樹の根元で、彼女は休憩をとっていた。インドの人だろうか、静かで透んだ瞳をしていた。誰にでもそうするように「こんにちは」と声をかけて追い抜いた。「こんちは」と、小さなラピスラズリのような声が聞こえた。なんでもない一瞬なのだけど、いまでも心に残っている。なんでもないのに心に残ることと、残らないことがあるのは、なぜだろうか。

しばらくすると石積みがあった。なんだかほっとした。河原の丸い石と違って、山の石は角張っているので乗せやすい。そこに石を乗せてから、別の石に変えた。剣山は頂上付近になると、石が白くなる。石灰が入っているらしい。白くなってくると、うれしくて何個も拾ってしまう。ポケットに白い石が詰まったころに、真っ白な霧に包まれた。

道中はテオドール・ルソーのことばかり考えていた。前日の夜に読んだ、ロマンロランの伝記のせいだった。ミレーの伝記なのに、心に残ったのはルソーだった。ルソーは生涯の大半を貧困と孤独のうちに過ごし、中風にかかってひどく苦しんだあげく、狂った妻のかたわらで、ミレーに抱かれて死んだという。バルビゾンにはどんな村や森や雲が広がっていたのだろうか。きっと美しい魂たちを包んで、いまもなお輝いているのだろう。

剣山の頂上は雲の中だった。霧中でブナの森を目指した。二の森を過ぎたあたりで、急に頭が痛くなった。2000m弱なのに、高山病はないだろう。道に迷うことはないけど、視界が真っ白で、それも不安だった。それでも行くのが冒険家なら、自分には冒険の資格はない。また今度にしようと決意して、引き返していたら、二の森の手前で、美しいブナの森を見つけた。自分はセザンヌのような斑紋がついていて、直観したらブナ(木無=木では無い)と呼んでいるだけなので、ほんとうにブナかどうかはよくわからない。でも引き返さなかったなら、再会できなかった小さな森にちがいない。

目的地にはたどり着けなくても、心にとどまる風景というものがある。その小さな出逢いのときめきが、自分にとっての宝物。坂道で追い抜いた青い彼女も、引き返したこの白い森も、イメージで散らばった印象を結びつける世界の断片。落穂を拾うように、通り過ぎていった記憶を追いかけている。



2015/04/24

この世界

犬の知覚には驚かされる。空(くう)は出かけようとすると、いつも狂ったように吠えるのだけど、出かけようかな、と頭で考えただけで、すでにソワソワしはじめる。こっそり出かけようと、別室でジーンズに財布を入れただけでも、扉の向こうから吠えはじめる。準備する前の、いつもとは違う状態を見抜かれているので、財布の革がジーンズに擦れる微かな音にも反応できる。本人も気づいていないような、表面からは知りにくい微妙な心の動きを、獣は感じとっている。言い換えると、見えないものを見ている。

こういう能力は人間にもあるだろうと思う。9日間の断食、断水、不眠、不臥という極限の行に入ると、意識が敏感になりすぎて、線香が燃え落ちる音が聞こえたり、襖の向こうにいる人の匂いがしたりするらしい。そこまで極限ではなくても、黙っていてもなんとなく伝わってくるものはあるし、嘘をつかれていると、なんとなくその人を心からは信じられない。その逆に、口ベタで不器用でも、嘘や虚飾がなければ、伝わってくる真心がある。でもそれがなんでわかるかは、自分でもうまく言えない。きっと心の奥には、人生の羅針盤がある。

ほとんどの人が見えていないものを見ている人は、気苦労が多いだろうと思う。誤解されたり、変わった人ねと疎外されることもあるだろう。でもそれがその人の心を強くする。彼の見ているものが自己中心的でさえなければ、それは彼にとってかけがえのない真実であり、ありのままでも美しいこの世界。





2015/04/10

慈悲


近所のお不動さんを修復した。出逢ったときから右の顔面が壊れていて、気になっていたのだけど、いままでなにもしなかった。去年、左目をケガしたのだけど、あれはお不動さんが注意しろよ、と教えてくれていたのだと思う。鏡で見ると同じ場所だから。聞き取れないような小さな声で、いつも教えてくれていたのに、注意しなかった。確かに聞こえていた沈黙の声を、聞き流していた。幸い大事には至らなかったのは、お不動さんの慈悲なのでしょう。へたな修復ですが、遅れてすいませんでした。(後で知ったのだけど、その日はお釈迦様の誕生日だった)


2015/03/29

色彩論②


夜の散歩。まだ咲ききらない夜桜が、月の視線を受けて桃色めいていた。

夜が暗く、昼が明るく。空が青く見える理由や、夕暮れがなぜ赤いのかは、調べればわかる。でも光の波長という知識だけで、空の青さや、夕焼けの赤みや、藍色の闇の奥深さや、花の紅に感じいる心の機微を、説明することはできない。色は感情を持っている。感覚として捕らえている色については、自分で自分を照らしてみないと、ほんとうのところはよくわからない。

ニュートン光学に反証する形で、ゲーテは約二十年の歳月をかけて色彩論という大著を書き、その意志を継いだシュタイナーがさらに詳しく色彩の本質を書き残した。実験によって数値に置き換えられた自然は、もはや本当の姿を失っていると、警鐘を鳴らした。色彩論では、色彩とは光と光ならざるもの対立(結婚)、光と闇の境界線にこそ存在すると説き、闇そのものの存在を重視し、色彩現象の両極を紡ぐ重要な要素として考えていた。もし世界に色がなければ、どれほど寂しかろうと思う。人が感情を持ったそのときに、世界に色が広がったとも言えるだろうか。


色とは、今まさにこの瞬間の生命の証(照)明という気がする。作品を色のない形で残そうとする表現者の想いも、そこにあるのではないだろうか。過去や未来には色がない。でも永遠の相がある。過去にも未来にも属することができないこの消失点、vanishing pointにだけは、光があたる。宇宙からの恵み、慈しみだと思う。

東洋的には色はしき。物体であり、物質のこと。表面に見える色だけではなくて、物体の内から輝く色(光)のことも含まれている。見えているものだけが色ではなくて、内面から引き出されるような見えない色もある。色即是空 空即是色。色のない世界とは、空(くう)のことだろう。


2015/03/08

沈黙の声


呼ばれたような気がして猩々の森に。

森の前の河原に、元禄時代の古い墓碑が転がって倒れていた。捨てられたのか、濁流に運ばれたのか。可哀相になって、砂場の脇に運んで、立てて、手を合わせた。それから森でスケッチして、帰ってから家の前の河原で犬と遊んでいたら、川べに白い球体が。卵かなと思ったら、石のように固い。でも石でもない。なんだかわからないけど、霊(たま)なんだろうなと思った。

猩々の森はこの山里の死角にある。道路からは見えないし、ちょっと遊びに来た人が見つけられる場所ではなくて、地元の人も知らないと思う。わかりにくい獣道なのに、トンネル工事が始まって、道が完全に閉ざされて結界がかかっていた。迂回してここに行くには川を渡る必要があるが、雨が降ると渡ることはできない。

森に入ってすぐに、頭上で大きく鳥が鳴いた。

聞いたことのない鳴き声だった。しばらくして以前から感じていた視線が、ヒノキの枝痕だったことに気づいた。樹には目がある。それに気づいてから、驚いた。ここはヒノキの植林の森なのだけど、枝痕は恐るべき数だった。無意識はそのことを知っていたのに、気がつくのに今日までの時間が必要だった。枝痕は無意識と見つめ合っていた。

何枚か写真を撮るのだけど、広い場所なのに、いつも必ず同じ立ち位置で撮ってしまう。すこし角度を変えているだけで、ほとんど同じ場所を撮っている。このことは自分でもうまく理解できない。その視線の先には時空が裂けたような真空があって、超自然的ななにかが関与して、此方と彼方の通路を開いているような。そこでなにかと繋がる。根拠はないけど、精霊だと思う。そのときはよくわからないんだけど(いつもそうだ)、しばらくしてその体験が、沈黙の声として、ゆっくりと言語化して意識に浮かんでくる。

memento mori

こういう体験をすると、頭では理解できない宇宙のはたらきが、自分を生かしていることがよくわかる。


2015/02/27

根崩れして倒れていた巨木を切った。45度の急斜面の、誰からも忘れた薄暗い森のなかで、よくもここまで耐えて生き抜いたものだと感心した。なんの木かはそのときはわからなかった。だからこの巨木に名前はなく、木のような顔をしているなにかだった。消えかけた年輪は150以上はあった。百年を越えている樹に刃を入れていると、なにかがこちらに向かって流れてくる様子がはっきりわかる。ありがとうと言っているように思った。それはこちらの台詞なのに。

巨木との出会いという内なる響を、私の中で言葉(樹の声)に変位させているのは、人間の通常の力では洞察できない、深い魂の働きなのだろうと思う。響そのものは実体がなく、人間というフレームの外から流れてくる。フレームの外を確認することはできないのだけど、音源の実在を世界(フレームの中)に感じとることはできる。

人間の視界(意識)から抜け落ちてしまう風景を、おそらく無意識は拾い集めている。そう思わせる経験が、いくつかある。風景が連続した時の積み重なりだとしたら、不自由な人間の目では追いきれないページがある。その抜け落ちたページで物語全体を語ることはできないけれど、拾い集めた風景を自分の時間で再構築すれば、フレームの外へと誘う力にはなりえるのだろうと思う。メルロポンティがセザンヌの絵を、まるで別の惑星の生命体からの視点のようだ表現している。絵画とはそういうことだと思う。意識には上らない風景を、記憶の向こうから取り出してフレームにおさめている。

まるで読み解かれるのを待っている本のように、風景は連続している。一度読んだらおしまいではなく、すぐに手が届くような場所に置いて、何度も何度も読み返す値打ちがある。

彼の名前は欅(けやき)だった。

刃を入れたときに独特の香りがしていた。後で調べてみて、欅と呼ばれていることがわかった。飾り台にしている丸太に顔を近づけると、つんと香りがする。近づけば香る。離れれば香らない。絶妙な間を置いて、物体の周りに香りが浮遊しているという状態は、人間の気配のようにいかにも不思議で、まるで見えない花が、樹(心)に宿っているような神秘性がある。

じつは巨木に寄り添うように生えていた杉を倒したときに、頭上から大きな枝が落ちてきて、顔面に直撃した。一瞬だけホワイトアウトして、鼻根部(目と目の間)が切れて血が流れて、あれから何日が過ぎたろう。今朝、鏡を見て、やっと消えはじめたその傷を見て、あの寄り添っていた杉のことを、ふと思い出した。あの杉は、欅を花のように思って、嫉妬したのだろう。

森のなかに一人でいたり、山に登ったり、川を見つめていたり。そういうときは一人なのだけど、一人じゃないという気がする。それは既に其処にある自然がそう感じさせるのだと思いこんでいたのだけど、ほんとうはそうではなくて、ある層(ゾーン)に意識が入るからなのかもしれない。大勢の人たちに囲まれていても、ふとした瞬間に、ひとりで森の中にいるような気持ちを抱えてしまう人は、いるだろうと思う。ゾーンに入ると、そういう意識体と空間を越えて繋がる。だから一人でも、一人じゃないという霊感を受けて、その感覚が鏡のようにまわりの風景に影響を与えて、世界の見え方が変わってしまう。

山に登っている人は、山を見つめている人たちと繋がっているだろう。海を見つめている人は、海への憧れや、広い心に繋がるのだろう。雲のように繋がったりちぎれたりする層(ゾーン)の存在は、あらゆるものが繋がったひとつのものという実感を、風景に託してその人に伝えている。

『自然は万物に美しい装いをさせ、生命を吹き込み、これをよしとすることができるのであって、例え個々のものは意識も持たず意味もないメカニズムに支配されているとしか見えなくとも、より深く見透かす目をもってすれば、個々の偶然の重なりや連続に、人間の心と見事に共感するものが見えてくるのです』Novalis

『空の中には何ものも存在しない。しかも、あらゆるものがその中から出て来るものである。それは鏡のようなものである。鏡の中には何ものも存在しない。だからこそあらゆるものを映し出すことが可能なのである』中村元「龍樹」




2015/02/14


無性に海が見たくなることがある。

誰もいない砂浜で、ぼんやり海を見ていると、なにも考えられなくなってきて、私が海を見ている、という状態から、私を通して、(なにものかが)、海を見ている。という経験に変位する。海が私を見ているのか、私が海を見ているのか、そんなこともわからなくなる。私を媒体にして、なにかが海と交流している。そんなふうに思わせる力が、海(波)にあるのだと思う。

太陽の破片が煌めき、波打ち際で慌ただしく小鳥が走る。そのかわいげな足跡を、波が静かに打ち消していく。そんな風景が、ますます自分を透明にしてくれる。海は生と死。時の流れそのものという気がしてくる。波の満ち引きと深い呼吸が重なるころ、忘れかけていた小さな生命が、繋がりを求めて戻ってくる。私のなかで考えていた神々が、詩聖(詩性)を通して囁いていたのは、新しい意識の創造についての話だろう。


2015/01/05

剣の徴

2015年、元旦の初詣は焼山寺に。路面が凍結していたので、へんろ道を歩いて登った。熊野古道によく似ていて、道は険しいのだけど、風情があって、吹雪の舞う荒道は、厳しくて美しかった。こういう機会がないと通ることはなかったので、お大師さんにこの道を行けと導かれたのだと思う。整備されて固くなった道路ではなくて、昔の人と同じ目線で山を知ることで、信仰の本質を考えさせられた。深くて豊かで、とてもいい山だと、あらためて思う。ここに寺を建てようよと願う気持ちを、身近に感じられたような気がした。

翌々日(1/3)、屋根の修理をしていて、不注意で足を切ってしまった。傷が深く、筋肉まで切れていたので、しかたなく中央病院の救急医療センター(ER)に。二層縫いで、皮膚の層は九針。たいした傷ではないけれど、しばらくは歩きづらいので、怪我をする前に初詣できたのは幸運だった。それにしても去年に続いて、ERにお世話になるとは思わなかった。いままで病院にはほとんど縁がなく、手術も入院もしたことはなかったし、皮膚を針で縫ったことさえなかった。神山に来てからは風邪もひかないし、病気もない。内(生命)は元気なのだけど、なぜか思いがけない外傷が続く。なんかあるのかなと思っていて、家人に言われて気づいたのだけど、今年は数えで厄年。去年は前厄。気になったので調べてみたら、厄年の起源は中国の陰陽道。吉凶占いを元にして、安倍清明が平安時代に拡めたと言われている。厄とは役。こちらの字感の方が腑に落ちる。なにかの役が見えない世界から、この年に徴(しるし)として与えられているとしたら、それが傷みや災いだとしても、恐くはない。たとえどんなことでも、その人にしかわからない、なんらかのメッセージなのだから。

僕はこう思う。ふたつの傷は、いずれも日本刀がかすめたような傷。剣(山)の透明なエネルギーが、時空を越えて命に触れたのではないかと。そんなふうに考えると、小さなこの傷が、なんだか誇らしく思える。