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2025/10/23
霊言
2025/04/07
空の生き方
その日は朝から一人で桜を見に行った。満開だったが、ときおり吹くつめたい風に桜の花びらが散りはじめていた。
一枚だけ蜘蛛の糸に引っかかって空中に浮いていた花びらが妙に気になった。その花びらだけは重力に逆らっていて、けして落ちない。まるでそこだけ時間が止まったように、宙に浮かんだ異次元のように見えた。
昼前には帰宅、空は白目がちで寝ていることがよくあるので、最近はいつも息をしているかどうか確認していた。
その日は横に倒れているのではなく、犬らしく丸くなっていて、目もはっきりと開いて遠い目をしていた。
水は飲んでくれなかったが、呼吸はしているし顔が明るい。(今日は調子が良い日だな)と安心して洗濯場にこもって植物の植え替え作業をしていた。
2時間後ぐらいだったと思う、空のお腹が動いていなかったのに気づいた。生き生きと目を見開いていて、今にも動きそうで、まるでその空間だけ時間が止まったように思えた。すぐには信じられなかった。生きているように死んでいた。
急に空が暗くなって、湿った風が吹いてきたと思ったら、雨が降りはじめた。その雨は夜中まで続いた。
…
空は去年の夏に衰弱して、かなり危なくて覚悟していたが奇跡的に復活した。それからはオムツが欠かせなくなり、足腰も急に弱った。顔が変わらないし保護犬なので正確な年はわからないけど、寿命を超えて生きてくれているような気がしていた。
散歩ができるのは今日が最後かもしれない、そういう愛おしい日々を重ねて厳しい冬を越えた。
3月中頃から身体が思うように動かなくてもどかしそうにしていた。食事も散歩もままならないんだけど、それでも矜持があって心配かけるのが嫌なのか、自力で立ち上がろうとする。犬はこういうところが美しいと思う。
4月に入ってから、自力で歩けないので歩行器を作った。寄せ集めのブリコラージュだけど、2、3回は頑張って使ってくれた。この頃には食事や水も無理やり流しこんでいた。今思うと、相当無理をさせていたんだと思う。でも寝たきりより、少しでも筋肉を動かしたり、外に出て気分転換をさせたかった。外に出ると虚ろだった目が生気を帯びることがあったから。
この頃には夜鳴きがはじまっていた。どこか痛いとか苦しいというよりも、抑えきれずに鳴り響く魂の叫びのように、ただ悲しそうで、せつなかった。まるで狼の遠吠えのようだなと思った。そして疲れ切っているのではないだろうかと感じた。
もう充分に頑張ってくれたから楽になってほしい、でも一日でも長く生きてほしいという、相反する感情に胸を掴まれていた。こういうことは看取ったことがある人はよくわかるんじゃないかと思う。それはもう人と動物という関係ではなく、純粋な生命の交流であり、言葉を離れた世界での魂との対話、それは芸術の領域にほど近い。
空が亡くなった夜に平気な顔で絵を描いてる自分が怖かった。でも空は死を待っているような生き方ではなく、死を恐れずに前を向いて生命を燃やし尽くした。そうでなければ、しばらく気がつかないような生き生きとした元気な顔をしない。彼は最後の力を振り絞って、時間を止めた。
2024/07/22
the end of the world
2024年7月19日、陽射しに強いエネルギーを感じたので映色実験をはじめた。水晶や無意識の海、双龍、butterfly effect、一通り試してみたが、他の全ての作品はうまく映色してくれないのに、この世の果てだけは息を飲むような虹色が出てくる。なにかあるなと感じて実験を重ねていた。
そして7月21日、この世の果てから凄まじいエネルギーが流れてきた。あきらかに今までとは違う。
2024年7月21日は山羊座の満月。かつてアメリカ先住民は、雄鹿の象徴である角が生え変わる時期にちなんで「バックムーン(牡鹿月)」と呼んでいたらしい。
「生まれ変わり」「復活のパワー」が秘められているという。
まったく知らなかったが、そう教えてもらった。いつもそうだが、後から教えてもらってハッとする。
自分は1月生まれの山羊座、そしてまさに今、画集の出版と展示を控えていて、家には白い角を持つ雄鹿(牡鹿)の絵で溢れている。
展示は自分にとっては個展というより儀式のようなもので、山から生まれた精霊を海に帰すセレモニーの意味がある(だから海に近いギャラリーを選んだ)。本の編集に時間がかかっていたのと、猛暑というのを考慮して9月にずらしたけど、最初はちょうど今くらいの時期に展示したいなと思っていた。
そしてこの精霊の森シリーズの最期に現れたイマージュが、この世の果て、the end of the world。これはまったく想定していなかった展開なので、自分でも不思議だった。洞窟に眠る白い狼が、夢の中から白い光の玉を送ってきた。夜空に浮かぶ星のような球体、それは同時に、川面に煌めく太陽の光だった。昼と夜は時間(人間)という糸で繋がっている。
山から海を繋ぐ、川。その川面に映る太陽の光。すべてが点と線で繋がって、精霊は輪廻していく。
個人的には、今年と来年は節目の年という予感がある。それが個人的なものなのか、世界全体のことなのか、自分ではわからない。ただ言えるのは、バックムーン(牡鹿月)から送られてきたこの精霊の光には、復活のパワーが秘められている。
2024/05/19
この世の果て
川面に揺れる光の粒を見ていると、まるで自分を内側から眺めているような気持ちになる。
同時に内側から宇宙全体に意識が広がっていくような、不思議な気持ちにもなる。まるで降りてくると同時に浮上する精神の光。その小さな輝きの一瞬は、やがて大きな渦を描き、見えない世界から聖霊を呼び起こす。この光が見える場所を「この世の果て」と呼んでいる。
この世の果ては特定の場所を持たない。あえて言うとしたら自分の内奥。だから外側に探しても見つからない。自分探しをして旅に出ても、見つからないように。
でも見えない世界にピントを合わせていると、やがて向こうからそれは現れる。目を閉じて近づくように心を開いて、内から外を見上げるときはじめて、見えていなかった世界が見えてくる。
2024/02/24
ワタリガラスと小さな狸
2023/12/17
虫の知らせ
強い西陽による映色。これまでで一番綺麗に黄金色が出たなぁと内心喜んでいたら、金色の蝶が舞い降りてきた。
まるで確かめるように龍の上を歩いていく蝶。この作品は失敗が続いていたので、祝福に来てくれたんだね、ありがとう。
それにしても不思議。完全に映色(この色が出せなくて苦心していた)と一致してる。
前回のbutterfly effectは祝詞中なので撮影出来なかったけど、今回はスマホを撮りに行く間も待っていてくれたし、近づいてもまったく逃げない。絵を踏まないように気を遣って歩いているようにも見える。
わざと自分を撮らせて、他の人にもなにかを伝えようとしてるような気配。そう、蝶がなにか表現(演舞)をしているかのように思えた。
虫の知らせは迷信ではない。人と自然は神秘の力で繋がっていて、全ての色彩や形象(イマージュ)は自然の中から現れる。
『認識の主体と客体は固定したものではなく、相互に交換できるものである。これは認識の対象が、人であっても自然であっても同じである』
『自然との触れ合いをとおして人間が自己理解に至るばかりでない。自然もまた、人間によって自己を理解するのである』
「ノヴァーリスと神秘主義思想」より
2023/09/23
彼方からの手紙
『神鹿が精霊の泉でなにかを見ている』
そのテーマだけ彼方(あちら)から送られてきて、まだビジョンは此方(こちら)には届いていない。そういう状態が『降りてくるのを待っている』という段階。シモーヌ・ヴェイユの「見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である」という言葉は、このこと。
ただ待つことだけでは取りこぼすので、こちらからもいつも描いて、いつでも受け取る準備をして見つめていなければならない。この向こうから来るのを待ちながら、こちらからも受け取る準備を整えて、ポテンシャルを静かに高めている状態を一言でいうなら、祈り。その祈りの対象を神と呼ぶ。
画家でもないヴェイユがこのことをわかっていたのは、それが全てのことに当てはまる真実だから。天才とは、この待ち時間が短い人のこと。しかし神の啓示はよいことばかりではなく、雷のような破壊的な側面もある。「絵を描く事は、自分の狂気への避雷針だ」とゴッホが語るように、神の待ち時間が短くなると、その人生も破綻しやすい。しかし雷を受けた大樹が龍の宿り木になるように、その作品は多くの人の魂の宿り木となる。
ポテンシャルとはまだはっきりとは現れていない可能性や潜在力のこと。ぼんやりとして、言葉にすると壊れそうになるが、それが漲ってくると、心身ともに元気になって、世界がキラキラと光輝いて見える。このポテンシャルは、自然の中に精霊の力として潜んでいる。だから古来から人々は鎮守の森に神の社を設定してきたし、花や草木の姿形にも、はっきりとそれは現れている。
彼方からの手紙を受け取ったものは、それに答えずにはいられなくなる。ポテンシャル(神)が充満するのを待ちながら、毎日のように祈り続けている。
彼らの時間は過去から未来ではなく、未来から今に向かって流れている。誰も気にしないような些細なことに苦しんだり、誰も見ていないようなことに喜びを見出していたり、頼まれもしないのにモノづくりに没頭する。他人から見れば無意味で滑稽かもしれない。でもそういう人生は、美しいと思う。
2023/06/23
ターラ(tara)
天使のような瞳で、肩に乗ってくるわ、頭に乗ってくるわで、とにかくなつっこくて、キラキラしていて、神気に満ちている。これはきっと化身。こんなことってあるんだな。
もしかしたら、無意識の方が意識より先に猫の鳴き声を聴いていて、連想して猫神さんのことを思い出していたのかも。どちらにしても無意識は宇宙と繋がっていて、世界は愛と不思議に満ちている。
引き取りたかったが、自宅はカムイがいるので難しい。カムイは生粋のハンター。これくらいの大きさの小動物を見ると、本能で襲う。厳しくしつけても、いつか見てないところで襲うだろう。
かといって見捨てるわけにはいかない。途方に暮れていたけど、とりあえず実家に頼んで預かってもらった。
話は猫と出会う前に戻る。
それから子猫に出逢った。
ある日、蛇が日向ぼっこをしていた場所の床が抜けて、そのことに気づいた。彼はきっとこの穴から、新しい世界へと飛び出したのだろう、光を求めて。
ターラ(tara)。
ある朝、すっと降りてきた言霊。taraはヒンドゥー語で「星」の意味があり、またチベット仏教におけるターラーとは眼睛(ひとみ)、救度(あらゆる苦しみから救うこと)の意味がある。
ターラー菩薩は、観音様の眼から放たれた、慈悲の光から生まれた仏様。
夏至の日に描いた子猫の瞳に、星の光が流れていたのは、そういうことだったのか。
そういえば、蛇を描いていたときに、なぜかチベット仏教の菩薩が頭から離れず、(救いを求めるように)資料を求めて図書館に行った。
そのとき必ず寄る場所が、図書館の横にある猫神さん。つまり蛇を描いていなければ、不思議なタイミングで子猫(慈悲の光)には出会っていなかった。
時系列にまとめてみよう。
蛇の絵を描きはじめる。
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蛇のような不思議な雲海を見た直後に大雨。
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家の下に大きな蛇が雨宿りしに来る。
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翌日その蛇が洗濯場でひなたぼっこ。見つめ合う。
↓
蛇の絵が白光しはじめる。
↓
やたらとチベット仏教が気になり、狂ったようにチベット密教音楽(マントラ)を聴き始める。
↓
チベットの菩薩が頭を離れない。資料を求めて、半年ぶりくらいに図書館に行く。
↓
図書館の横にある猫神さんに参拝。
↓
帰り道で子猫に出会う。
↓
洗濯場の床が抜ける。
↓
隣の空き地に、あの蛇の亡骸を発見。
↓
猫の絵を描く。
↓
ターラという言霊が降りてくる。
神格化されることはあっても、現実には蛇は忌み嫌われる。毒をもつ種があるので、生存本能としてはしかたないかもしれない。でも子猫はかわいい、蛇は気持ち悪い、という極端な分別は、人間が生物に勝手に押し付けている都合で、本質ではない。
あの蛇はとてもかわいい目をしていた。
そして子猫に生まれ変わった。観音様の涙の力で。
すべてが繋がっている。
でもすでに実家ではミィちゃんと呼ばれていたので、名前はミィちゃん。(笑)
名前は実際に飼ってる人がつけるもの。自然で呼びやすい方がいいに決まってる。
でも見えない世界での彼女の名前は、ターラ。観音様の涙であり、慈悲の光なのだ。
追記:古い土着信仰では、蛇の神様のことを巳さん(みぃさん)と呼ぶらしい。実家ではミィちゃん(巳ちゃん)と呼ばれているターラ。なにも知らない家人につけられていた名前、不思議と辻褄が合っている。
2023/05/08
羚羊(カモシカ)
「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」
とメルロ=ポンティは「眼と精神」に書いている。何度でも引用したくなるこの言葉は、いつもすっと腑に落ちる。証明することは難しいけれど、たしかに絵と現実は霊的な通路で交流している。
ただし、いい絵を描きたい(孤独を越えたい)のか、それとも共感してもらいたい(孤独を埋めたい)だけなのかで、交流の在り方はずいぶんと変わってくるのだろうと思う。前者がリアルなら後者はバーチャル。
ほんとうのメタバース(高次の宇宙)とは、人の手でプログラムされたオンライン上ではなく、雨の新緑で誘い出すような、創造の神によって現実に重ね合わせられた我即宇宙。
呼吸をするように眼で聴き、手で応じていると、やがて宇宙に漂っていた「存在」は現れる。ただ綺麗なだけの絵にそれはない。存在はいつも沈んでいた自分を世界に浮かび上げてくれる。もはや描いているのか、描かされているのか本人にもわからない。
ただひとつわかること、私は絵の中に生きている。














































