2011/06/26

ゴーヤーの花

ゴーヤーの黄色い花弁が強い風にもがれ、そのまま風に乗って、たまたま隣に置いてあったメダカの壺に落ちた。まるで一陣の風が飾り気のないメダカの壺を哀れんで、花を添えたふうに見えるこの瞬間とは、偶然に偶然が重なった瞬間を、さらに偶然に僕が目撃しただけのことで、いくら考えたところで、それ以上の理由などないはずなのだけど、なにか釈然としない。しっくりとこない。納得ができない。その一連の出来事に、見えない存在の意志が介在したような気がしてならない。

こんな些細なことが積み重なって、わからないことが、わからないままで手つかずでどんどん荒れ地になってしまう。意固地になっているつもりはないのだけど、一言で世の中ってそういうもんだよ、と簡単に言う人や、都合のよい解釈の宗教を持ち出す人もまた、信じられない。

生まれてすぐ息を引き取った赤子を抱く母親や、結婚式当日に不幸にも事故に合って式を迎えられなかった花嫁、そして震災で家族を失った人たちに、今ここに居るはずの人がいないということは、偶然に偶然が重なっただけで、意味などないんですよ。とはっきりとその人の目を見て言える人が、はたしているのだろうか。もちろん状況は違いすぎるくらいの差があって、抽象的な思考に酔っているのかもしれないのだけれど、話は逸れていないと思う。

芸術とはその答えを模索する心の動きの現れなのだと思う。水面に浮かんでいる、この偶然のゴーヤーの花のように。わけがわからないものをある角度から世間に知らせる、というシグナルのような役割。たまたまの出来事に内在している存在を、表に現す、術のこと。負荷のかかる世界を受け止めつつ、作品として変換する回路を鍛え、時流ではなく、時流の外に漂っているものを掴み取ること。すなわちそれは、どんなふうに生きていくかということを常に自分に問いかけていくということなのだと思う。




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