2011/09/01

眠る男

小栗康平監督作品「眠る男」を見た。

冒頭から、フレーミングが気になってしかたがなかった。なぜここにこれが映っているのか。まったく関係ないような電線や家財道具、看板。画面の奧で(撮影していることに気づいているかどうかもわからないように)ごく当たり前に人や車やバスが横切る。心象を伝えるような俳優のアップショットもなく、気がかりな言葉を残して唐突に絵が変わったりする。なにを書いているかよく見えない背景の看板、チラッとだけ見えている積み重なった洗濯機や、どこにでもありそうな橋や、見覚えのある山、空、雲、鳥。あらゆるものが偶然のようにフレーミングされている。多くの監督が排除しようとする事象を、あえて作為的に取り込んで、混沌とした大きな渦を、化学反応のように、ゆっくりと発生させているというのか、例えばなにもない青空に、魔法をかけて雲を発生させている実験を見ているような印象があった。

終始ただならない気配のようなものを感じていた。その気配とは別に、見覚えのある、どこか懐かしいような日本の風景が同時進行しているで、極個人的な思い出を取り戻しているしているような感慨もつきまとう。ふとゴチャゴチャしているなあ、と思っていたものが、ピタッと等価値になる瞬間がある。そこで人間とは世界の主役ではなく、ある一部分を形成しているだけ存在ということを気づかされる。でもちゃんと自然の一部として存在している。共存している。吹き飛ぶような芥子粒のひとつひとつに、物語と矜持がある。眠る男を枢軸にして、表と裏、あの世とこの世を逆転にさせた混乱が、さらにその物語を際だたせる。それを見せられて、引き裂かれそうな自分がいる。そんな自分を見透かしたように、男は、物語の終盤、ブロッケン現象に映る影に向かって「人間って、大きいんかい?小さいんかい?」と尋ねる。観ている自分も、あのときまさに、そう尋ねたかった。代弁してくれたような爽快感があった。ほっとするのと同時に、自分自身に問いかけられているという気持ちにもなる。虹の中にいるのは、自分の影だったことに気づかされる。問うてみたかったのも自分だが、問いかけられたのも、自分だったという矛盾が異界への扉を開き、世界が二重とも三重とも呼べるような存在であることの気づきによって、視界が開けたような快感に満たされる。

フレームの中に在るものすべてが、緻密に計算され、周到に準備されたもの、または無意識が呼び寄せた、本人すら気づいていない(のではないかと僕が思うだけ)、奇跡的な存在の集合体であることにはっきりと気づかされたのは、能のシーンだった。これはもう、僕には語れない。観て頂くしかない。人智を超えた恐るべき力の介在が、はっきりとここに見える。もちろんここだけではなく、恐るべき力は、物語のそこかしこに散りばめられている。「恐るべき力」の源泉のようにも見える、自然の摂理に逆らった「魔」のエネルギーを喚起させるような、ゆっくりと半時計回りに動く巨大な水車。唐突な鳥の声、台詞。女が森で対面する眠る男。鹿。吸い込まれる煙突の煙、蝿、竜巻。当たり前のように通るバス、車、人、電車。当たり前のような商店街、自転車置き場、民家。すべてに満遍なく愛情が注がれ、見逃してしまいそうな「当たり前」や「意味不明」や「どこにでもある」が説得力を放ち、そこから渦のようにして物語が紡がれる。だからこそ鑑賞する側の無意識に溜まった要素を浮かびあがらせたうえで、どこに行ってしまうかわからないような、風に舞う落ち葉のような気まぐれを追いかけているようなテンポが我(が)を誘い、そこはかとなく完結したうえで、そこはかとなく無限に向かって解き放たれ、極私的な物語となりえる。

僕はこの映画を見て、希望(希なる望み)とも言い換えることができるような、気高い負荷を背負うことができた。この負荷は、とても自分を逞しくしてくれる力だ。自分を根本から否定し、打ち砕き、とことんまで絶望させてくれたうえで、性根もろとも蘇らせてくれる可能性と勇気だ。その力は啓示となって、この先、大切な場面で僕に直接語りかけてくれるのかもしれない。今すぐではなく、忘れたころに。もしかしたら鹿の口を借りてかもしれない。もしかしたら雨音を借りてかもしれない。もしかしたら鈴虫の音を借りてかもしれない。「君が変わらずして、なんで世界が変わるはずあるんだい?」「おい、どうかしてないか?ちゃんと自分を信じろ」「大勢に迎合する必要がどこにある?」「よく考えろ。それが大事なことか?」「今ここに、なんで君は生きてる?なぜ君は死ななかった?」そしてグルグル回って、この問いに帰結することだろう。「人間って、大きいんかい?小さいんかい?」

それにしても心を揺さぶる作品は、いつだって大勢とか大多数とかの影に隠れて、まるで踏み絵のように、そこに至る過程に階段を仕掛けてあり、辿り着くその過程、そのものまでもが作品の中に組み込まれているような不思議がある。だからこそ恩寵であり、類い希なんだろうなあと思う。


風の旅人 編集だより 「人間は大きいのか、小さいのか」
http://kazetabi.weblogs.jp/blog/2008/04/post-2dcf.html

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