2012/12/17

新天地

山道をバイクで走っていると、ときどきだけど、車に無茶な追い越しをかけられる。自分もしかたなく追い越しをかけることもあるのだけど、トロトロ走るのが好きだから、めったにしない。前に遅い車があったら、(失礼だけど)ちょっと微笑ましいような、かわいいなあ、という気持ちになる。そうやってハッと気がつくと、じりじり車間が詰まってしまって、前の車が進路を譲ってくれるという申し訳ない状況です。人それぞれに好みのスピードがあるのだろうから、抜きたい人は抜けばいいと思うし、我が道をゆけばいいと思う。ただし対向車線の無理な追い越しだと、関係ないはずのこちらの方にこそ、正面衝突の危険があり、しゃれにならない。車は馬ではなく、人の手で便利なように都合良く作られた鉄の塊で、自分が気持よくなりたいだけの乱暴な手綱さばきは、無関係のひとを傷つけるから、そういうデリカシーのなさは許せない。とにかく追い越しをかけられると、いつもいろいろ考えてしまい、変な気持ちになる。たとえば車が国家だったとしたら、どうだろう。道が人生だったら、どうだろう。とか。手綱をさばく人間の都合で、寄り道もままならず、途中下車も許されず、ただ過剰な緊張を強いられて、まわりの景色や会話も楽しめない速さで、タヌキやイタチをはねて、いったいどこに辿り着くのだろうか、とか。

高三から(ちゃんと免許を取って)バイクに乗り続けているし、ツーリング好きなので、スピードの魅力は痛いほど知っているつもりだ。それは理性では押さえられない、魔性のこと。人の心の奥の奥には、自己犠牲をいとわない思いやりの心と、手のつけられない魔物が、同居しているのだと思う。そのような複雑さを知っていているひとは、過去に通った道すじや、まわりの景色に対して敏感になり、無茶な追い越しをかけたりはしないのだと思う。自分と戦うから。

                            ★

昨日の朝、僕はのんびり走りたかったので、緩い内カーブで、車体を路肩に寄せて、後ろから車間を詰めていた車に進路をゆずった。白の軽自動車で、女性が乗っていた。ここまではよくある場面だったが、その車は僕を抜いたあと、ひどく遅れて、お礼サインのハザードランプを二回、点灯させた。ひどく遅れたのは、「もたついた」からだと思う。ああ、はやくお礼を言わなきゃと、あせったからだと思う。その変な間があったせいか、なぜかいまでもランプが心に残っている。ハザードを光らせた場所や、タイミング、車の後ろ姿、自分でも不思議なんだけど、ありありとその場面を思い出せる。目的地に着くことや、走ることそのものよりも、こういうもたついた時間によって記憶される場面や、自分のなかで変化する心の模様のほうに、いまは興味がある。遠回りで、臆病に見えるかもしれないのだけど、その方法でしか辿り着けない目的地(新天地)もあるんじゃないだろうかと。


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