2013/03/22

家の前のしだれ桜が咲きはじめた。車を止めて写真を撮る人がチラホラ。散歩道にも名も知らぬ花がたくさんある。パックリと満開であったり、それなりに咲いていたり。色とりどり。花ってなんだろうなあ、と思う。あの色、形、匂い。なにかを表現しているのはよくわかるのだけれど『花のこと、わかった?』と聞かれると、さっぱりわからないと答えるしかない。女性的、というのはある。下手な花の絵を何枚か描いているけど、近所のおばちゃんが見に来ると、花の絵に立ち止まる。そんなとき、ああ、女性だなあ、と思う。絵によって、なにかを思い出している、というふうに思える。だけどあの色はなんだと思う。なぜそのように咲くかと思う。描いていても、よくわからない。ましてや桜のことなど。畏れおおくて、閉口してしまう。カラスウリの花のことだけは、ちょっとわかった、と言える。それは自分のなかで、密かに関係を持ってしまったから。自己矛盾かもしれないけど、関係を持ってしまったものは、うまく描けない。カラスウリの花は、途中で投げ出してしまった。

「よくわからない」というのは、僕のなかでは種(たね)のような大切な要素で、これを無理やり誰かを説得させるような力学を含んだ文脈や、科学に置き換えていると、だんだんその『なんだかわからないのだけどなあ…』と思ったときの経験から離れていく。『わからないなあ…』と思うのは、一方で強く惹かれている証拠なので、そのものとの関係(契約)を育むためには、未知で自由で個人的な領域を確保する努力が必要だと思う
。2011年3月11日のとき、その後のこと。誰しもがある強い経験(直観)をしたはずだと信じられる。その楔(くさび)は、個々の触れられない記憶のなかに突き刺さっていたもの。言い方を変えれば、種として、植えられたはず。その種が、まだ芽も見せないうちに、年月とともに、自分のなかから離れていったと感じることが、ほんの少しでもあるとしたら、その強い経験から、引き離そうとする力が、どこからか介在した、ということ。

経験とは、静かで内なる育みのなかで咲く、花のようなもの。だから、その経験から引き離そうとする力に対しては、ことごとく自分の微細な変化を注視していなければならない。答えがすでに自分のなかにあるのに、言い訳を考える時間が、経験を自分事から引き離す。そうして記憶は、確かであるはずのかけがえのないものから、ある力が加わった別の違うものへと歪められていく。当たり前だけど、自分のことは、自分からは見えない。だから対象との関係を育むこと、種から花を咲かせ果実を実らせるような内的な体験によって、『ああ、自分はいま、こんなことを感じているのだなあ…』という、誰にも歪められていない姿が、鏡によって確かめられる。だから、花を見て思い出せばいいのだと思う。見ているようで、見ていないということ。それがわかるまで、見つめ続ければいいのだ。





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