2014/08/16

小さな声


朝から近雷が鳴り響いている。

数日前、台風明けの鮎喰川で、一人流されたと聞いた。詳しいことは聞いていないけど、憤ると同時に、胸がつかえたような気持ちになった。氾濫した鮎喰川を見ていると、その圧倒的な力に吸いこまれそうになる。足がすべらしたらまず助からないことはわかっていても、タナトスに惹かれてしまう。でも実際に近づいていくと、耳の後ろの方で、小さく声がする。『やめとけ』と。それ以上ちかづくなと。それは内なる声だから、従う。自我が肥大していると、その声が聞こえにくくなるのだと思う。内なる自然に対して耳を澄まして従うことは、臆病ではけしてない。

自然は怖い。畏れこそ本性だと思う。

だからこそ敬虔な気持ちがわいてくる。敬うような気持ちで接していると、見返りを求めない、大いなる母のような、無限の愛情を与えてくれる。見えない手で、あなたは一人ではないと、抱きしめてくれる。自然は正体を見せない。人間なんて眼中にないから、計り知れないところがある。人間がいてもいなくても、自然はいままでもこれからも、存在し続けてくれている。芸術とはこれからも存在し続けてくれる自然への、人類からの置き手紙であり、贈り物だと思う。古来から芸術は自然の模倣である、と言われている。人間が自然の一部だからだと思う。

自然はじねんとも読む。たまたまそうであること。即ち偶然という意味でもあるという。自然とは、人為によってではなく、おのずから存在している。おのずから存在しているものが、なんらかの形をとっている。人間が川と呼んでいるのは、川が存在しているというよりも、存在が川という姿をしているだけなのだと思う。同じように、人間が自然と呼んでいるものとは、自然が存在しているのではなくて、存在そのものを自然と呼んでいるだけの、実体のつかめないイマージュ。言葉が自然を切り離してしまったと嘆くなら、その声で自然を取り戻せばいいのだと思う。

動物界、植物界、自然界は、人間界と繋がっている。そういうふうに総和的に自然を観察していると、自と他の区別が曖昧になってきて、外的現象と内的世界が結びついているような気がしてくる。そういうときにでも聞こえてくる小さな声とは、命(いのち)だと思う。

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