2014/11/12

不思議の壁


窓辺に一羽の小鳥が来てくれるようになった。

ふっくらとしてかわいいこの小鳥の名は、ジョウビタキ。ジョウ(尉)は和名で銀髪、鳴き声が火打ち石の音に似ているので、ヒタキ(火焚き)。銀髪の火焚きは渡り鳥らしい。どこから来て、どこに帰っていくのだろうか。聞いてみたくなる。

鳥には自然物と人工物の区別がない。電線だろうが木の枝だろうが、気にしてない。人間が自然なら、人間が作った物も、ほんとうは自然。区別しているのは、自然を自分から切り離してしまった人間の目。電線にとまる鳥の自由を見ていると、そんなことを考えさせられる。

ある日、天気がよかったので裏庭で絵を描いていたら、ジョウビタキ(銀髪の火焚き)がのぞきに来た。べつにのぞきに来たわけではないのだろうけど、そんなふうに感じる自由はある。夕方から部屋に移動して同じ絵を描いていたら、またジョウビタキが来た。窓をコツコツと足で叩いたり、体ごとぶつかっている。窓が認識できないんだろうなと思う。こういう透明なしきり(壁)は、自然界には存在しないだろうから。

人間界にも透明なしきりというものは存在する。これ以上踏みこんではいけない領域や、結界がある。不思議の壁は見えないので、野鳥が窓を理解できないように、人間もその壁を理解できない。でも心静かにそっと近づくことによって、開示される美しさというものはある。内面の体験が、窓(外界の美)を開く鍵になるのだと思う。

視界のどこかに動植物がいたり、川のせせらぎや小鳥の声が聞こえたりすると、ほっとする。部屋に花を飾ったり、雨音で心が落ち着くのは、きっと間接的に自然と同期しているからだろう。切り離された自然が、求められて、思い出すように内面に戻ってくるそのときに、不思議の壁が一瞬だけ消える。

不思議の壁が消えたそのときに開示される美しさとは、ほんとうの自分の静けさに立ち戻り、誘惑や雑音を消して、本質世界にコミットしようとする意志(自分の力)に対して、送り届けられるギフトのようなものだろうと思う。

窓を叩く小鳥に対応して、回路を合わせる自由は、誰にでもある。窓にぶつかる小鳥を笑うだけなら、自分の心の壁にも気づけないのだろう。小鳥に窓を通過させて家に入れることはできないけど、自己愛や浅い感傷心や幼児性を乗り越えて、透明な存在の命を受け入れることはできる。小鳥と出会う。ということの本質とは、そういうことだろうと思う。



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