2025/10/23

霊言


人手が足りないからと頼まれて神輿を担いできた。自宅から近く古くて静かでとてもいい神社。でも十年以上住んでいて声をかけられたのは初めて。なにかあるのかなと思っていた。

神気が入ったのか、終わった後も身体が軽くなったみたいでぜんぜん疲れてない。翌日も肩が少し凝ってる程度で、体調がすこぶる良いのが不思議だった。

翌々日の夜、夢の中で『もっと高みへ』と霊言を受けた。

もっと高みへ、もっと高みへ、もっと高みへ…

静かで優しい声で夢の外からそう繰り返して、だんだん聞こえなくなって消えた。声の響き方が鈴の音のようでとても印象的だった。今回は男性の声だった。霊言は年に一度あるかないか、滅多にはない特別なものだ。

この数年で一番心に残っている霊言は『あなたの絵はあなたのものではない』という言葉。女性の声だったからマリアとか天使の類だろう。では絵は誰のものか?という答えは、既に自分の中にある。

抑圧された無意識の声(自分の影)と霊言との違いは、後者はあきらかに自分の外から聞こえること。感覚的にはかなり遠い上の方の場所で、夢の外から異界(他界)の声として響いてくる。その言葉は栞のように心に残って、いい意味で忘れられなくなる。

道元は坐禅をしているときにもし菩薩や如来が出てきたら、イメージの中で槍を持って突き殺せと、わざと強い表現で説いている。ユングも魂の膨張は狂気の緩和された形であり、自己と同一化するのを避けるよう忠告している。精神科医としての適切なアドバイスだと思う。例外はあるかもしれないが、幻聴は心の病だから。

自分もいわゆるお告げは信じない。そのほとんどは肥大した自意識に取り憑いた亡霊、悟りを開いたと錯覚させる魔物だから。内なる声は自分の声。シビアにそう考えてから、深く静かに無意識に潜って神に繋がる方が健全だと思う。

霊言は神のお告げとは違う。稀に自分の外から来て、本人にしかわからないような短い示唆(間接的にそれとなく示し教えること)で、愛と勇気を与えてくれるもの。

概念としてもっとも近いのは、折口信夫の提唱したマレビト。稀に来る外部からの客神。今回は神事に参加したことが影響したのかもしれない。


 

2025/04/07

空の生き方


空(くう)を送る日、天気が良く、とても気持ちの良い朝だった。やわらかい風に吹かれて、桜の花びらが青い空に広がって大空を舞っていた。
火葬業者の車に収まった顔の上に、その花びらの一枚を乗せて感謝を告げた。


2025年4月6日、空(くう)が永眠した。

その日は朝から一人で桜を見に行った。満開だったが、ときおり吹くつめたい風に桜の花びらが散りはじめていた。

一枚だけ蜘蛛の糸に引っかかって空中に浮いていた花びらが妙に気になった。その花びらだけは重力に逆らっていて、けして落ちない。まるでそこだけ時間が止まったように、宙に浮かんだ異次元のように見えた。

昼前には帰宅、空は白目がちで寝ていることがよくあるので、最近はいつも息をしているかどうか確認していた。

その日は横に倒れているのではなく、犬らしく丸くなっていて、目もはっきりと開いて遠い目をしていた。

水は飲んでくれなかったが、呼吸はしているし顔が明るい。(今日は調子が良い日だな)と安心して洗濯場にこもって植物の植え替え作業をしていた。

2時間後ぐらいだったと思う、空のお腹が動いていなかったのに気づいた。生き生きと目を見開いていて、今にも動きそうで、まるでその空間だけ時間が止まったように思えた。すぐには信じられなかった。生きているように死んでいた。

急に空が暗くなって、湿った風が吹いてきたと思ったら、雨が降りはじめた。その雨は夜中まで続いた。

空は去年の夏に衰弱して、かなり危なくて覚悟していたが奇跡的に復活した。それからはオムツが欠かせなくなり、足腰も急に弱った。顔が変わらないし保護犬なので正確な年はわからないけど、寿命を超えて生きてくれているような気がしていた。

散歩ができるのは今日が最後かもしれない、そういう愛おしい日々を重ねて厳しい冬を越えた。

3月中頃から身体が思うように動かなくてもどかしそうにしていた。食事も散歩もままならないんだけど、それでも矜持があって心配かけるのが嫌なのか、自力で立ち上がろうとする。犬はこういうところが美しいと思う。

4月に入ってから、自力で歩けないので歩行器を作った。寄せ集めのブリコラージュだけど、2、3回は頑張って使ってくれた。この頃には食事や水も無理やり流しこんでいた。今思うと、相当無理をさせていたんだと思う。でも寝たきりより、少しでも筋肉を動かしたり、外に出て気分転換をさせたかった。外に出ると虚ろだった目が生気を帯びることがあったから。

この頃には夜鳴きがはじまっていた。どこか痛いとか苦しいというよりも、抑えきれずに鳴り響く魂の叫びのように、ただ悲しそうで、せつなかった。まるで狼の遠吠えのようだなと思った。そして疲れ切っているのではないだろうかと感じた。

もう充分に頑張ってくれたから楽になってほしい、でも一日でも長く生きてほしいという、相反する感情に胸を掴まれていた。こういうことは看取ったことがある人はよくわかるんじゃないかと思う。それはもう人と動物という関係ではなく、純粋な生命の交流であり、言葉を離れた世界での魂との対話、それは芸術の領域にほど近い。


空が亡くなった夜に平気な顔で絵を描いてる自分が怖かった。でも空は死を待っているような生き方ではなく、死を恐れずに前を向いて生命を燃やし尽くした。そうでなければ、しばらく気がつかないような生き生きとした元気な顔をしない。彼は最後の力を振り絞って、時間を止めた。

自分は薄情な人間だけど、飼い主のエゴに付き合って歩いてくれた日々は忘れないし、時間を止めてまで空が示してくれた生き方に従う。それが彼との約束だから。

たくさんの思い出をありがとう。