2013/10/21

マレビト

鹿の声で目を覚ました。山の奥から響いてくる鹿の声は、もの哀しく、心と体に染みこんでくる。

思い返してみると、いつもなにか、自分にとって節目のようなタイミングで、鹿に出逢っているような気がする。自分はとくに鹿に思い入れはないので、だからこそなにかあるのかな、と勘ぐってしまう。

入山禁止になるほどの大雨の白谷雲水峡で、用心深いはずの屋久鹿の家族に囲まれたことがある。全身真っ黒な服で直立不動していたので、きっと見えなかったのだと思う。神山に住むことに決めて、十数年ぶりに登った剣山では、ニホンカモシカが信じられない距離に近づいてきた。それ以来、何度も登っているのに、一度も見かけていない。神山に住みはじめたとき、いきなり大きな鹿の頭蓋骨を河原で拾った。それからも探したけど、それきり一度きりだった。つい最近も、唐突に立派な角を持った雄鹿に出逢った。たまたまといわれればそれまでなのだけど、自分にしかわからないような、まるで励ますような気になるタイミングで、鹿は出現しているような気がする。そういうタイミングで出逢うとき、頭が真っ白になる。いろんな記憶が脳から飛んで、なにも考えられなくなり、±0になる。神仏に手を合わせたときにも、そんなふうになる。だから願い事ができない。言葉が脳にないので、願えない。

たまたま鹿の親子がいる絵を加筆しているときに、山から鹿の声が響いてきたことが何度かある。そのときは絵に励まされているような気がしたのだけど、はたしてこの「たまたま」というものが、自分がしかけたのか、それとも鹿にしかけられたのか、それがよくわからない。

自分にとって鹿は、マレビトではないかと考えはじめている。
『まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する。常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという』from wikipedia

人ではないけど、マレビト。この世とあの世を紡ぐ使者ではないかと。鹿は鹿。それ以上でも、それ以下でもない。だから鹿そのものがただならない気配を出しているのではなくて、化身。鹿の背後に、天岩戸のような、時空の裂け目のようなものがある。鹿との関係は個人的なことなのだけど、誰にでも、おしなべて平等に、そのようなマレビトが出現しているのではないかと推測する。世界への理解を促す、きっかけのこと。通常的に反応する力学、そうそう、私もそう思う、いいね、というのは、共感であり、共有の感応だと思うのだけど、共に感じるその先に、理解という扉がある。理解に向かうとは、いまだ明かされていなかった場所を自灯明で照らすことであり、それは言い換えれば、自分の地図を広げていくことにも通ずるのではないだろうか。

意識ってたぶん、羅針盤のような動きをしていて、アンテナをどこに立てているかで、地図も変わる。針を揺らしているのが人為的な力なのか、天空や地下世界のような、自然の力なのか。それぞれ運命にとっての、マレビトを迎え入れることができれば、その使者の道案内で、地図そのものが書き換えられていくのかもしれない。地図が広がれば、視野も広がる。


2013/09/08

無心時間

昨日今日と、雨の合間を縫って、伸び放題だった草をむしっていた。土が濡れていると、地面がやわらかくなるので抜きやすい。草を抜くときに、ビリビリビリっと手のひらに、雑草の小さな声が響いてくる。まるで交換電流のように。その響きが、快感として、雑草からなにか力を分けてもらっているような気がしている。雑草の魂が、手のひらから入ってくるというのか。雑草は、勝手に伸びている。ちょっと目を離したすきに、問答無用で根を張って生き生きと生きている。そういう生物としての逞しさが、具体的なリアリティとして、手のひらから、ビリビリビリビリと伝わってくる。それは小さな響きなのだけど、自分でも気がつかないような、心の奥の襞を、揺らしているような波動がある。雑草を抜いているとき、きっと土の世界を感じているんだと思う。草と関係を持つことによって、見えていない地下世界の営みと、植物の時間感覚を、手のひらで受け取っている。だから小さな響きでも、心の深いところで、波紋のように広がっていく。

むしっているのは、おとなりの樋口のじいさんの土地だけど、じいちゃんは今、風邪で入院している。じいさんのいない間に草が伸び、荒れ放題になるのは、ちょっと心苦しいという気持ちが、自分を草むしりに駆り立てた。たかが草むしりだけど、されど草むしり。無心になれる、その運動のなかで、手のひらから入ってくるエネルギーがある。根を張っている地下世界は、外からは見えない。派手に騒いでいる表層は、ぐんぐん進んでいる、その地下世界の、複雑に満ちた営み、その混沌に起因している。そのカオスにアクセスしているということは、普段、意識している惰性の日常から抜け出して、心身が旅をしていると言えるだろう。心が地下に、潜っていく。なにも考えずに草むしりしていると、日常でパターン化されている時間のリズムが消えている。腹が減ってきたとか、また雨が降りそうだなとか、風の匂いが来たな、とか、そのような肉体として感覚機能に敏感になり、霊感が研ぎ澄まされて、内と外が草と土の匂いを介して、エネルギーが交流する。外から見ればつまらない単純労働に見えるだろうけど、そうではない。小さいながらも、草といういのちを摘み取っているという経験値と、草に隠れて見えていなかった、あらゆる昆虫との新鮮な出逢い、見えない世界への心の沈殿は、流行っているので、それじゃあいこうか、という表面的な旅よりも、内在経験としての哲学の芽吹きがある。いたって地味に見える無心時間のなかに、静かに落ちて波紋する一滴の無心の汗は、人生を記憶している。





2013/08/29

神通瀧



自分をリセットしたいときに、ここに来る。

なんとなく心がざわざわして、気が乱れているなあ、と感じたら、迷わず出かけていく。するとリセットされて、±0になれる。この0というのは、なにもない状態ではなくて、ブラックホールのように、淀みなく無尽蔵に、いろんなものを取りこめる真空の状態であり、意識の源泉だと感じている。気が元に戻るから、元気になれる。無限の空間を満たしている潜在意識は、きっとここから流れ出てくるのではないだろうか。


『私は恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっている。意識はまだあるが、失おうとするちょうど境目におり、霊感に満ちた着想が湧くのはそんなときだ。真の霊感はすべて神から発し、ただ内なる神性の輝きを通してのみ、神はご自身を顕すことができる。この輝きのことを、現代の心理学者は潜在意識と呼んでいる』ブラームス

『我々は霊を定義できないが、身につけることはできる』老子






2013/08/15

月影

黙祷の焼山寺から帰宅後、昨晩焚いた、玄関先の迎え火の蝋燭の缶のなかに、ヒグラシが黒こげになって横たわっているのに気づいた。昨日の暗い夜を彷徨って、炎のなかに、飛びこんでしまったのだと思う。飢えた老人(帝釈天)を助けるために、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ月の兎を思い出した。昨晩、迎え火の写真を見たときに(ああ、太陽のように見えるなあ)と思っていたので、深く考えさせられた。真夜中の太陽が燃えつきて、真昼の月になったのだ。その月影は、ヒグラシの捨身。今日が終戦記念日ということも、偶然ではないと思う。

 


最近ちょっと不思議なことが続いている。とりたてて話すようなことでもなく、誰の前でも平等に在る自然や、個人的で見過ごしてしまいそうな小さき事象を、大きな目で観察しているだけなのだけど、それが現実に、目に見える形やタイミングで具現化するのを体験し続けていると、信じる気持ちというものの奥深さと、無限性を実感する。




こうして写真を時間軸を逆にして眺めていると、まるでヒグラシが燃えていたかのように思えてきた。ほんとうはそうではないという科学的な検証も、この強い確信を揺るがすほどの腕力はない。私たちは時間とは過去から未来に流れているのだと、当たり前のように思っているけども、肉体を超越した存在なら、まるで鯉が瀧を昇るように、未来から過去にさかのぼることもできる。いまこのように生きていられる奇蹟を思い出させるために、ヒグラシは終戦の日を狙って、炎に飛びこんだのだろう。


2013/08/02

弔い

蟻を観察していて、とても不思議な光景を目にした。

蝉の亡骸のまわりに、蟻がたくさん集まっていた。(ああ、集団で巣に運ぶんだな)と思って見ていたが、いっこうに運ぼうとしない。よく見たら、蝉のまわりに、落ち葉や小さな種が、取り囲むように添えてある。さらに小さな蟻が、懸命に葉と種を運んでくる。まるで蝉の葬儀。蟻が蝉を、弔っているのだ。蟻にとって、蝉の亡骸は貴重な栄養源のはず。なのに巣に運ばずに、周りに葉や種を添える意味がわからず、まるで自分を疑うように観察.していたが、小さな蟻は、確かに葉と種をわざわざ持ってきて、横に置いたのを確認した。それから蝉の亡骸の近くでは、まるで相反するように、生まれたばかりの、なんだかよくわからない小さな幼虫が、蟻の集団に襲われていた。

蟻の魅力は、機能美だと思う。無私であり、迷いのなさ。それでいて、昆虫ならではの不思議な直観が働いている。たとえば長い棒のようなものを運ぶとき、一匹が端っこに噛みついて、運ぼうとするが、重すぎて、動かない。すると、すすっと別の蟻が来て、反対側を持つ。見ていたとは思えない早さで。実際、仲間が困っているのを、目で確認したりはしていないと思う。そういう回路ではなくて、状況によって、体が正確に反応している。虫のみならず、動物、植物、森羅万象、生きとし生けるものすべてが有している、直観的感応力だと思う。もちろん人間にも備わっているものと、確信している。頭よりも先に体が動くような場面は、意識していないだけで、それほど珍しいわけではないのだから。

子どもの頃から蟻を見るのが好きで、大人になっても変わらない。蟻の動きは、世界の感じ方を教えてくれる。蟻は人間(観察者)によって態度を変えたりしない。蟻を踏んでも、蟻は人間を恨まない。蟻は人間という観察者には、気づけないようなシステムのなかに存在して、世界を構築しているから。同じことが、人間にも言える。人間は、自然を愛することはできても、逆らえなし、恨めないし、抗えない。人間が自然に逆らうようなことをしていれば、蟻が人間に気づくのと同じで、生命の秩序が崩れて、自滅の道を辿るのだと思う。そのことは、直感的にわかる。蟻と人間との違いは、そのようなシステムのなかに存在している理由のことを、考えることができること。自分をミクロにしてみたり、マクロにしてみたりして、自然に同期したり、心を運動させることができること。それが人間の大いなる可能性。
 
蟻の営みを、人間(自分)が見て、どう感じるか。僕は蟻による蝉の葬儀を見て、ある私的な記憶が結びつき、そのあと、幼虫を襲う残酷な場面を見て、ちっぽけな自分史と、壮大な生命の世界が交錯した。その接点において、本質の陰影を見たような気がする。言い方を変えると、美しいと思った。
 

 
 
 

2013/07/15

カムイ


雷雨のさなか、ヒグラシの大合唱が響いてきた。まるで天空に鳴く、ワッカ・ワシ・カムイ(水のカムイ)。

遠雷が響きはじめると、空(犬)が極端におびえはじめる。あれは動物ならではの、研ぎ澄まされた感受性で、神威(カムイ)を感じているのだと思う。

【カムイ】(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。

犬が雷鳴や地響きにおびえるのは、その音の正体がよくわからないからなのだろう。吠える対象を失い、おそるべき強大な暗力の存在だけを感じて、その支配力から逃れようと、だからパニックになる。これは人間でもよくわかる。脅威に対して、原因を探り、分析を繰り返し、安定をはかる。雷のことを知らない赤ちゃんは、雷ではなく、轟きに泣く。現代科学は雷がどういうシステムで発生して、なぜ起こるのか、その知識を、万人で共有している。だから犬のように混乱はしないのだけど、世界はいつだって混乱している。

時計を分解しても、時間のことはわからないように、メカニズムを知ることと、本質を知ることはまるで違う。暑い日に打ち水をしたときに、なぜ空中に虹が発生するのか。その仕組みを知ることはできけど、そのときの虹との関係のなかで生まれている、心の動きを説明できないのなら、その手法で虹というものの正体を知ることはできないと思う。

人間とは根源的に、時間的存在であるとしたら、カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。時間をかけて、時間に許されたものの御影(みえい)ではないだろうか。人間の手で作られたものでも、何千年、何百年と受け継がれてきたものには、カムイが宿っている。そうでないものは、崩壊しているのだから。



追記 2014.3.9

ある日、首輪のついた黒い犬を見かけた。うろうろしている背中がとてもさみしそうで、あれは捨て犬ではないだろうかと、ずっと気になっていた。保護しようと思ったけど、夜はどこかにいなくなる。冷たい雨の夜だった。ふと強烈に思い出した。いまどこで、なにをしているのだろうか。おなかが空いてはいないだろうかと。

犬は言葉を使わない。即ち、概念のない世界に生きている。彼らはわたしたちを、どういうふうに見ているのだろうか。どう見られているのだろうか。わたしたちは言葉から生まれて、つねに概念に囚われている。動物は毎日、新しい太陽を見ている。人間は夜がすぎれば、朝が訪れることを知っている。夜が終われば朝が来る。だけどそれだけで、太陽を知っていると言えるだろうか。はじめて太陽を見るような、あの感動はどこにいるのだろうか。わたしたちの目は、なにも見ていないし、なにも知らないのだと思う。この雨に震える犬は、きっとわたしたちを、世界から見つめている。

翌日、黒い犬を保護した。カムイと名付けた。

カムイはまるく、自分を包みこんで眠っていた。冷たい雨の夜、自分はこの姿を幻視した。カムイを保護して何人かに、そんなに拾ってばっかりいたら、そのうち家が捨て犬だらけになるよ、と言われた。それを冗談と受け止める余裕はあるけど、すこしさみしい気持ちになってしまった。世界中のかわいそうな状況を救うことはできないし、そのような積極的な仏心が、自分に備わっているとも思えない。ただ、出逢ってしまい、宿ってしまう、心象世界での約束というものがある。そこにたいして、自分をごまかしたり、いいわけを探したりということは、自分にはできない。

ようするに、自分を守りたいのだと思う。死守したい真空があり、その裂け目に潜んでいる神秘が、天命を握っているのだと理解している。ひとりの人生には限りがあるのだから、縁があれば、迷わずひきこめばいいのだと思う。たかが捨て犬が、わたしたちの三次元空間に、新しい座標軸をひいてくれることがある。カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。


『俺は、すべての神秘を発(あば)こう、宗教の神秘を、死を、出生を、未来を、過去を、世の創成を、虚無を。幻は俺の掌中にある』アルチュール・ランボー「地獄の季節」

『あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ』宮沢賢治「ガドルフの百合」


追記 2014.3.26

カムイ(犬)の飼い主が見つかりそうにないので、うちで飼うことにした。

公共機関でもネットでもオープンにしたし、新聞(アドネット)にも載せた。コンビニにもずっとポスターを貼らせてもらっていたし、猟友会にも探してもらったから、捨てられたのは確定だと思う。

手に負えなくなったら、捨てればいいと思っているんだろうな。誰かが面倒みてくれるだろうと、勝手に思っている。捨てられたものの気持ちや、後のことなんて、考えられないのだろうか。人間(自分)は。
よくある話だし、自己愛を重ねたり、感傷的な気持ちに溺れて、酔っているつもりはないけど、空やカムイは、探してもらえない悲しみ、疎外の反美学を背負っている。言い換えれば、孤高。それでも空(くう)とカムイ(神威)は、人間を恨んだり、憎んだりしていない。

カムイは噛み癖がひどい。

見ただけでは安心できないので、噛むことによって、その歯ごたえで世界を知り、確かめようとする。甘噛みだけど、牙がささるのでけっこう痛い。これはどうにかしなければと思って、いい方法を知って、鹿の角を与えてみたら、角の形におびえていた。目から鱗。斬新だった。おもしろいので、手に持って揺らしたら、角に向かってワンワン吠えている。いまはもう慣れてガジガジ噛んでいるけど、はじめて見る形そのものに、なにかを感じていたんだろうと思う。レイチェル・カーソンなら、センス・オブ・ワンダーと呼んだろう。

概念があったら、こんなことはありえない。でもまだ純白な子どものころなら、人間でもありえる。空も鹿の背骨の形を怖がっていた。モノだから、噛みついたりしないから大丈夫だよ、という理屈は、動物には通らない。人間が、成長するに従って太くなるパイプ(回路)とは、違う回路で世界を感じているから。



再追記 2014.3.26

鹿の角が一晩でこんなになってしまった。カムイと鹿の角はよほど相性がいいらしい。もっと角を手に入れないと。でも鹿の角のような、形そのものに神気が宿っているものって、探すと見つからない。ケセランパサランもそう。出逢いはいつもセレンディピティ。




話の角度が変わるけど、上の写真は夕方に撮ったもの。下の写真は朝に撮ったもの。まったく同じ場所。カメラのことはあまり詳しくないので、オートフォーカス。ほんのすこし露出過多の、いつも同じに設定にして、フラッシュが焚けないようにしてある。

朝と夕で、これだけ色が違う。

もちろん写真が目に映ったそのままの色ではないとしても、普段の目は時間をともなっているので、光の波長の違いが、よくわからない。こうやって見て、はっとする。裏を返せば、こんなふうに確認しないと、はっとできない。人間が時間だから。

カムイは(自分の神話のなかでは)時間的制約から放たれた存在なのだけど、人間は暗室という外部装置(カメラオブスクーラ)によって、はじめて自分の存在を確認できる。

モネの連作を思い出していた。

ルーアン大聖堂は、光によって存在感を変える。見るタイミングによって、見え方が変わる。モネの無意識は、このことを丁寧に伝えずにはいられなかった。人は見たいように、世界を見ている。だけどほんのすこし角度を変えれば、見え方は広がる。多面的に世界を見て、やっと物事が俯瞰できる。そこでやっとスタート地点、ほんとうの豊かさに出逢う旅が始まるのだと思う。

色というのはほんとうに不思議で、人間の思考では底が見えないような奥深さがある。その色にどういう意味があるかというよりも、むしろ、なぜそのように見えているかを考えたいと思う。意味を超える神秘への理解は、日々の生活に哲学の種をもたらしてくれるから。

2013/07/06

我心

突然やってきた犬(空)が、川ではしゃいでいるのを見ていると、それだけで自分まで解放されたような、無私の気持ちになる。たぶんそれは、自分と捨て犬との接点が、曖昧になっているからだと思う。拾ったのか、拾われたのか、飼っているのか、飼われているのか、捨てたのか、捨てられたのか、西行が「いかにかすべき我心」と悩み続けた我心(わがこころ)が、いったいこの世界のどこにあるのか、よくわからなくなる。

だけどいまこの川を流れている水や、雨粒は、まぎれもなく、あのとき東日本を襲った水であり、これから原子炉を冷やす水であり、あのとき飲んだ水であり、これから飲む水。そのことさえ忘れなければ、犬との戯れの接点においても、はしゃいではいられない人たちの心と、死者の魂を抱きしめることができる。その肉体を超越した抱擁が、さまよえる、いかにかすべき我心の、ベクトルではないだろうか。
自分と戯れるくらいなら、犬と戯れて、自分と戦う。




2013/06/20

輪廻


輪廻と転生について考えていた。輪廻のイメージは信じることができるのに、前世や来世、生まれ変わり、というリアリティで思考すると、とたんに回路がずれるというのか、しっくりこなくなる。これが自分が宗教に、心の底からは踏み込めない理由のひとつになっている。では自分の信じられる輪廻とは。ダヴィンチはこんな言葉を残している。

『手に触れた水は最後に過ぎ去ったもので、これからやってくる最初のものである。現在という時も、同じようなものである』

この言葉は「過去も未来も現在に含まれている」と言うよりは、切実さがある。実際に水は、触れて、見て、匂って、味わって、飲んで、出して。そういう身近なものだから。

【水循環】太陽エネルギーを主因として引き起こされる、地球における継続的な水の循環のこと。固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発・降水・地表流・土壌への浸透などを経て、水は地球上を絶えず循環している。from wikipedia

たとえば、今まさにこの瞬間に降っているこの雨の一粒は、卑弥呼が髪を洗った水かもしれないし、これから福島の原子炉に注入される冷却水かもしれない。かもしれないではなくて、検証できないだけで、まさに、そう。検証できないものは、検証できないからこそ、在り続ける存在になりえるわけで、現在に落ちる一滴の水は、過去や未来の記憶を含む、大海を飲みこむ全体の一部なのだから、ダヴィンチの言っていることは、そういうことだと思う。


分の感覚で育っている輪廻のイメージ(像)は、この水循環がもっとも近い。人間の心も、水のようなものだと思う。死者の声を記憶しているし、未来を映し出しているし、たえず形を変えて、相を変えて、循環して、今、この瞬間に在る。太陽のエネルギーや、月の引力、地球の磁場、宇宙の磁場。人間など眼中にない世界の力によって、水も心も、絶えず影響を受け続けて、だからこそ生き生き生き生きて、死に死に死に死んで、循環している。肉体が消滅しても、魂が在るという表現は、一滴の水を考えるだけで、すんなり筋が通る。






2013/06/13

石仏

いい顔のお地蔵さんを見ていると、心ってこもるんだなあと思いますね。
















2013/06/03

法隆寺

奈良の法隆寺と興福寺に行ってきた。雨の法隆寺を期待していたのだけど、カラっと晴れて、空には龍が通りすぎたような羽衣の雲が浮いていた。期待を裏切ってくれる天空は爽快だ。

特別開扉されている南円堂、北円堂に入ってすぐに無著(西行)と目が合って、背筋になにか電気のようなものが走って、髪の毛が逆立ったような気がした。世親と無著はもう、生きている人より生気がある。ああいう当時そのままの奇跡的な空間に身を置くと、関わった人たちの魂まで感じられるのが嬉しい。法隆寺は聖徳太子が建てたのではなくて、大工さんが建てたのだから。それは太子が一番近くに感じていたと思う。

通信や交通手段のなかった飛鳥人よりも、現代人の方が、はるかに多く、古き仏たちを体験していると思う。千年先まで届くように考えて作られたのだから、それはもう、当然のことだろう。祈りの矢は、ちゃんと届いているということを、飛鳥の大工に伝えたいという、タイムマシンでも作ってみたいような、もどかしい気持ちがある。

ただただ惹かれているだけで、仏像も仏画も、詳しいわけじゃないし、神社と寺を間違えるほどの不作法がある。では古き仏たちのなにに惹かれているかと自分に尋ねてみると、手放しに昔を賛美して、現実逃避したいわけではないではなく、仏たちの、その答えのない無限の眼差しにあると思う。言葉にならないような、どうにももどかしくて矛盾したこの気持ちを、憤怒の表情で、なぐさめるような優しい眼差しで、冷たく突き放し、無言で諭すような遠い視線で、その言うに言われぬ、言葉に成り立つ前の、起源のような不安定にエネルギーの満ち満ちたこの気持ちを、代弁してくれているように感じているのだろう。自分のかわりに傷を負ったように朽ち果てていく像(イメージ)は、罪を背負って自然に還ろうとしているようにも見える。汗をかきながら、美術館に展示されている有名な作品ではなくても、無名な石仏は至るところにある。その風化に、人間が、当たり前のように自然に還っていく姿を、鏡のように重ねているのだろう。

311からカタツムリの速度で進めている仏の素描が、四冊目に入った。一冊目は色即是空、二冊目は空即是色、三冊目は色不異空、というタイトルをそれぞれにつけている。これから描きはじめる四冊目の空不異色は、救世観音からはじめようと思っている。