2013/12/31

メメント・モリ


大晦日。焼山寺、奥の院へと続く雪山へ。山雀に囲まれて、タヌキの足跡を追いかけて、喉が渇いたら、雪を囓る。焼山寺の奥の院は目立たぬ小さな祠だけど、そこはかとない威厳がある。そしていつも誰もいない。目立たず、知られず、ひっそりと、ただ枯れて、散るだけの侘びしさと、無常というものが漂っている。ここですこしばかり、瞑想した。とは言っても、座っているだけのこと。頭だけが冴えて、高感度で覚醒する。

瞑想(Meditation)って、なんだろうか。わかったようで、わからないところがある。人それぞれの性質にピントが合った状況があると思う。自分の場合を考えると、たぶん画布に向かっているときが、それに近い状態だと思う。瞑想状態にあっても、もちろん手は動いているし、色の調合などはできる。だけど背後から名前を呼ばれたりしても、返事ができにくい状態にある。聞こえてはいても、対応しにくい。肉体労働にはまっているときによく似ていて、自分の体(マシン)を運転しているような酩酊状態。それでいて心身が消滅するような、なんとなく眠くなっているのに、意識が透明にメンテナンスされて、力強く冴えていくような態度。

メメント・モリ。目(覚)めんと、森(ヘ)。

死を想う時間なんだと思う。知覚の扉を半開きにして、あらゆる通路を確保する。第一の直観って、雑念や常識、世間体や情念など、あらゆる要素に揺さぶりをかけられて、消えてしまうものがほとんどで、第二、第三の直観に変容したり、記憶に保留されて、破片として夢の世界に散らばる。瞑想って、その揺さぶりを止める在り方の、ひとつの型(format)なのではないだろうか。

剣山山系を見渡した。下の方から、鐘の音が聞こえた。





タブラ・ラサ

タブラ・ラサ。

タブラ・ラサ(tabula rasa)とは、ラテン語で、白紙状態、何も書かれていない書板、という意味がある。感覚的経験をもつ前の心の状態を、比喩的に表現したもので、人間の知識の起源に関し、生得観念を否定する経験論の主張を概括する言葉。

空が崩れるような、暗く、厳しく、美しい吹雪。
長く続く雨の日や、いつもの風景が失われていくような白雪の時間には、タブラ・ラサを感じる。
原始の記憶を透過する、心の真空がやってくる。

One way to open your eyes is to ask yourself,
"What if I had never seen this before?
What if I knew I would never see it again?"
 Rachel Carson

(目を開くひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
もしこれが、今までに一度も見たことがなかったものだとしたら?
もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?と)
レイチェル・カーソン



2013/12/08

鳥のように


鳥って、自然物と人工物の区別がない。自然と人工物を分けて考えてしまうのは、人間だけ。動物、とくに鳥は、場所を選ばず、電線や電柱なんかに、たくさんとまっている。とまり木が、枝なのか、電線なのか、それは眼中にない。潔く、生命のままに、過酷な状況を、ただ生きるのみ。それだけ。巣も、人間のようにローンを組んで買ったりしない。そもそも土地なんて、ほんとうは誰のものでもないはず。だから人家の軒下とか、電柱の上とかに、平気で巣を作る。それは野蛮ではなく、自然なこと。野蛮なのは、人間の方だろう。それがわかっているから、昔の人は、ツバメの巣ができる家は、縁起がいいと伝えてきた。鳥の巣を見ると、ビニールのヒモとか、糸くずなんかが混じっている。鳥を見ていると、間接的に、人間が、自然の一部なのだなと思い知らされる。

最近、変電所に行く機会があって、詳しい人に聞いてみたら、あれは50万ボルトの電流が流れているらしく、人が入らないように立ち入り禁止にして、鉄条網を張ってあるだけなのだけど、人間が指一本でも触れたら、感電して、ほとんどの場合、即死するそうだ。ただし鳥は、いくら止まっても平気。大地に足がついていないから、電気が入っても、抜ける場所がないで、電流にならない。人間でも、鳥のように体だけで飛びつくことができれば、全毛が逆立つだろうが、いくら高圧でも、感電しない。しかしほんのわずかでも、べつのなにかに触れていれば、感電死する。自分の作ったものに、自分が破壊される。人間が、人間に、破壊される。鳥のように、自由にはなれない。蛇なんかでも体が長くて接地面が大きいので、感電するそうだ。あのほんのごく小さな足の裏の接地、なにものにも依存せずに、自分の力のみで飛べる鳥にしかできない、不死身。その話を聞いたとき、みずからの体を炎に投じて、だからこそ何度も蘇り、再生する不死鳥(火の鳥)のイメージが重なった。

この重力の世界で、自分の力だけで、空を飛ぶということが、どれほど過酷で、どれほど自由なのだろうか。

『<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと』
Simone Weil

鳥は、場所のないところに、根を持っているのではないかという印象を、人間に与えてくれている。そして、その声。鳥はその妖しくて美しい声で、言葉にならないことを表現している。鳥は人間にとってのメッセンジャーであり、神の使者なのだと思う。神即自然。わたしたちの魂は、どこから生まれ、どこに行くのだろうかと。そのような謎を背中に乗せて、いつの時代も、なにかを伝えようとしてくれている。





2013/11/24

神即自然



空(犬)が車にひかれた。

幸い命に別状はなく、骨も折れていない様子だ。森で放し飼いで遊ばしていたら、突然まっしぐらに道路に降りてしまった。ぶつかったのは、大量の犬を乗せた謎の軽トラック。その軽トラが近づくと、空のタガが外れるので、妖怪犬車と名付けて、日頃から注意していた車。その妖気を、空は樹林のなかで感じてしまった。離れていても、人間とは感度が違うことを、忘れてしまっていた。人間の尺度で、考えていた。足の速さに追いつかず、走る森のなかで、なにかがぶつかったドンっという低くて鈍い音と、キャンという高い悲鳴だけを聞いた。内心、ああ、死んだな、と思った。あわてて森を降りて、現場に着くと、空はいなかった。そこには空の毛の塊が落ちていた。軽トラのじいさんに聞いたら、ぶつかったあと、下(しも)のほうに走っていったというので、追いかけた。すると家の前にいた。パニックになって、帰省本能で疾走したのだと思う。ほっとした。前足のつけねの皮膚が大胆にベロンとめくれて肉が出ていたが、それほど血は出ていなかった。歩き方も自然に見える。だから病院には行かなかった。手をかけて、自然治癒を見守ろうと思う。夜になって、極端にびっこをひきはじめた。本当の痛みは、影のように。後からジワジワついてくる。しばらくは、脳内の興奮物質で痛みを感じなかったのだろう。人間と同じだなと思った。傷を執拗になめて、いきなり老犬になったように、おとなしくなった。鈍い痛みがあり、本能が安静を強要しているのだと思う。しばらくは、外で遊べないけど、生きてくれてよかったと思う。
 
たかが犬。だから考えたい。

首輪を外した自分の不注意を、棚にあげるつもりはないし、自家中毒になっているつもりもないし、犬に自分を投影しているつもりもないけれど、突然ボロボロのガリガリで家にやってきたこの犬には、生命力に裏打ちされた、強運がある。以前も一度、車の正面に飛び出してしまった。ほんとうにギリギリの急ブレーキをかけてくれたおかげで、助かった。そのとき長縄を引いたときの摩擦で、手のひらが擦れて、血で焼け爛れた。それくらいやんちゃで、でかくて、力が強い。だから捨てられたのだと確信できる。当初はおびえて、他人を噛んだこともある。謝り倒して、許してもらった。慣れないうちは、自分も何度も噛まれた。拾うのが数日遅れたら、保健所で死んだろう。そこも強運だと思う。ヨダレが異常に出る。わがまま。外に出たがる。遊びたがる。女好き。臆病。無駄吠えする。拾い食いをする。ほんとうにめんどくさい性格だけど、それが動物。野性と思う。目に物言わぬ力があり、観察しているだけで、忘れかけたなにかを思い出させる。走り回っている姿を見ているだけで、元気になれる。救ったつもりが、救われているのだ。感傷的になるつもりはないけれど、怪我をさせてしまったことにたいして、胸が締めつけられた。自分だった方が楽だとも思った。人間が創ったもの(道路と車)に、その人間が被害をこおむる。達観すれば筋が通るから、ただの不運。なにも言いたいことはない。だけど、なぜ一匹の犬が、大量の犬を乗せて人間が運転する謎の軽トラックに、ひかれなければならないのだろうかと。過酷な土地、その生活のなかで、生き抜くための捕食、打ち立てられた神話のなかで、犠牲になるのとは違う。突然やってきたこの犬は、人間(自分)、または現代に対して、明確に問題提起をしてくれている。

空(犬)を家のなかに保護したあと、森のなかにカバンをそのままに置いていたので、取りに帰ったら、足元にケセランパサランを、ふたつだけ、見つけた。今年の一月に見つけて以来、いくら探しても、見あたらなかった。それが今日、たまたま見つかった。しかも、ふたつしかなかった。ケセランパサランとは、なんだかよくわからない綺麗な羽根のついた、まるで森の妖精のような種子。この謎の美しい種子は、江戸時代から妖怪と呼ばれていた。空は二度、車という妖怪に吸い寄せられて、二度とも、助かっている。ケセランパサランは、自然の霊。きっと、動物を人間の業から守る妖怪なのだと思う。(ケセランパサラン)http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2013/01/blog-post_5.html

                                                                         ★

毎晩犬と一緒にジョギングをしているけど、しばらくは一人だ。昨夜の月も、綺麗だった。百年前も百年後も、百万年前も百万年後も、なにも変わらず、きっと同じように、美しいのだと思う。

『神即自然(deus sive natura) 』スピノザ
 



2013/10/21

マレビト

鹿の声で目を覚ました。山の奥から響いてくる鹿の声は、もの哀しく、心と体に染みこんでくる。

思い返してみると、いつもなにか、自分にとって節目のようなタイミングで、鹿に出逢っているような気がする。自分はとくに鹿に思い入れはないので、だからこそなにかあるのかな、と勘ぐってしまう。

入山禁止になるほどの大雨の白谷雲水峡で、用心深いはずの屋久鹿の家族に囲まれたことがある。全身真っ黒な服で直立不動していたので、きっと見えなかったのだと思う。神山に住むことに決めて、十数年ぶりに登った剣山では、ニホンカモシカが信じられない距離に近づいてきた。それ以来、何度も登っているのに、一度も見かけていない。神山に住みはじめたとき、いきなり大きな鹿の頭蓋骨を河原で拾った。それからも探したけど、それきり一度きりだった。つい最近も、唐突に立派な角を持った雄鹿に出逢った。たまたまといわれればそれまでなのだけど、自分にしかわからないような、まるで励ますような気になるタイミングで、鹿は出現しているような気がする。そういうタイミングで出逢うとき、頭が真っ白になる。いろんな記憶が脳から飛んで、なにも考えられなくなり、±0になる。神仏に手を合わせたときにも、そんなふうになる。だから願い事ができない。言葉が脳にないので、願えない。

たまたま鹿の親子がいる絵を加筆しているときに、山から鹿の声が響いてきたことが何度かある。そのときは絵に励まされているような気がしたのだけど、はたしてこの「たまたま」というものが、自分がしかけたのか、それとも鹿にしかけられたのか、それがよくわからない。

自分にとって鹿は、マレビトではないかと考えはじめている。
『まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する。常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという』from wikipedia

人ではないけど、マレビト。この世とあの世を紡ぐ使者ではないかと。鹿は鹿。それ以上でも、それ以下でもない。だから鹿そのものがただならない気配を出しているのではなくて、化身。鹿の背後に、天岩戸のような、時空の裂け目のようなものがある。鹿との関係は個人的なことなのだけど、誰にでも、おしなべて平等に、そのようなマレビトが出現しているのではないかと推測する。世界への理解を促す、きっかけのこと。通常的に反応する力学、そうそう、私もそう思う、いいね、というのは、共感であり、共有の感応だと思うのだけど、共に感じるその先に、理解という扉がある。理解に向かうとは、いまだ明かされていなかった場所を自灯明で照らすことであり、それは言い換えれば、自分の地図を広げていくことにも通ずるのではないだろうか。

意識ってたぶん、羅針盤のような動きをしていて、アンテナをどこに立てているかで、地図も変わる。針を揺らしているのが人為的な力なのか、天空や地下世界のような、自然の力なのか。それぞれ運命にとっての、マレビトを迎え入れることができれば、その使者の道案内で、地図そのものが書き換えられていくのかもしれない。地図が広がれば、視野も広がる。


2013/09/08

無心時間

昨日今日と、雨の合間を縫って、伸び放題だった草をむしっていた。土が濡れていると、地面がやわらかくなるので抜きやすい。草を抜くときに、ビリビリビリっと手のひらに、雑草の小さな声が響いてくる。まるで交換電流のように。その響きが、快感として、雑草からなにか力を分けてもらっているような気がしている。雑草の魂が、手のひらから入ってくるというのか。雑草は、勝手に伸びている。ちょっと目を離したすきに、問答無用で根を張って生き生きと生きている。そういう生物としての逞しさが、具体的なリアリティとして、手のひらから、ビリビリビリビリと伝わってくる。それは小さな響きなのだけど、自分でも気がつかないような、心の奥の襞を、揺らしているような波動がある。雑草を抜いているとき、きっと土の世界を感じているんだと思う。草と関係を持つことによって、見えていない地下世界の営みと、植物の時間感覚を、手のひらで受け取っている。だから小さな響きでも、心の深いところで、波紋のように広がっていく。

むしっているのは、おとなりの樋口のじいさんの土地だけど、じいちゃんは今、風邪で入院している。じいさんのいない間に草が伸び、荒れ放題になるのは、ちょっと心苦しいという気持ちが、自分を草むしりに駆り立てた。たかが草むしりだけど、されど草むしり。無心になれる、その運動のなかで、手のひらから入ってくるエネルギーがある。根を張っている地下世界は、外からは見えない。派手に騒いでいる表層は、ぐんぐん進んでいる、その地下世界の、複雑に満ちた営み、その混沌に起因している。そのカオスにアクセスしているということは、普段、意識している惰性の日常から抜け出して、心身が旅をしていると言えるだろう。心が地下に、潜っていく。なにも考えずに草むしりしていると、日常でパターン化されている時間のリズムが消えている。腹が減ってきたとか、また雨が降りそうだなとか、風の匂いが来たな、とか、そのような肉体として感覚機能に敏感になり、霊感が研ぎ澄まされて、内と外が草と土の匂いを介して、エネルギーが交流する。外から見ればつまらない単純労働に見えるだろうけど、そうではない。小さいながらも、草といういのちを摘み取っているという経験値と、草に隠れて見えていなかった、あらゆる昆虫との新鮮な出逢い、見えない世界への心の沈殿は、流行っているので、それじゃあいこうか、という表面的な旅よりも、内在経験としての哲学の芽吹きがある。いたって地味に見える無心時間のなかに、静かに落ちて波紋する一滴の無心の汗は、人生を記憶している。





2013/08/29

神通瀧



自分をリセットしたいときに、ここに来る。

なんとなく心がざわざわして、気が乱れているなあ、と感じたら、迷わず出かけていく。するとリセットされて、±0になれる。この0というのは、なにもない状態ではなくて、ブラックホールのように、淀みなく無尽蔵に、いろんなものを取りこめる真空の状態であり、意識の源泉だと感じている。気が元に戻るから、元気になれる。無限の空間を満たしている潜在意識は、きっとここから流れ出てくるのではないだろうか。


『私は恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっている。意識はまだあるが、失おうとするちょうど境目におり、霊感に満ちた着想が湧くのはそんなときだ。真の霊感はすべて神から発し、ただ内なる神性の輝きを通してのみ、神はご自身を顕すことができる。この輝きのことを、現代の心理学者は潜在意識と呼んでいる』ブラームス

『我々は霊を定義できないが、身につけることはできる』老子






2013/08/15

月影

黙祷の焼山寺から帰宅後、昨晩焚いた、玄関先の迎え火の蝋燭の缶のなかに、ヒグラシが黒こげになって横たわっているのに気づいた。昨日の暗い夜を彷徨って、炎のなかに、飛びこんでしまったのだと思う。飢えた老人(帝釈天)を助けるために、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ月の兎を思い出した。昨晩、迎え火の写真を見たときに(ああ、太陽のように見えるなあ)と思っていたので、深く考えさせられた。真夜中の太陽が燃えつきて、真昼の月になったのだ。その月影は、ヒグラシの捨身。今日が終戦記念日ということも、偶然ではないと思う。

 


最近ちょっと不思議なことが続いている。とりたてて話すようなことでもなく、誰の前でも平等に在る自然や、個人的で見過ごしてしまいそうな小さき事象を、大きな目で観察しているだけなのだけど、それが現実に、目に見える形やタイミングで具現化するのを体験し続けていると、信じる気持ちというものの奥深さと、無限性を実感する。




こうして写真を時間軸を逆にして眺めていると、まるでヒグラシが燃えていたかのように思えてきた。ほんとうはそうではないという科学的な検証も、この強い確信を揺るがすほどの腕力はない。私たちは時間とは過去から未来に流れているのだと、当たり前のように思っているけども、肉体を超越した存在なら、まるで鯉が瀧を昇るように、未来から過去にさかのぼることもできる。いまこのように生きていられる奇蹟を思い出させるために、ヒグラシは終戦の日を狙って、炎に飛びこんだのだろう。


2013/08/02

弔い

蟻を観察していて、とても不思議な光景を目にした。

蝉の亡骸のまわりに、蟻がたくさん集まっていた。(ああ、集団で巣に運ぶんだな)と思って見ていたが、いっこうに運ぼうとしない。よく見たら、蝉のまわりに、落ち葉や小さな種が、取り囲むように添えてある。さらに小さな蟻が、懸命に葉と種を運んでくる。まるで蝉の葬儀。蟻が蝉を、弔っているのだ。蟻にとって、蝉の亡骸は貴重な栄養源のはず。なのに巣に運ばずに、周りに葉や種を添える意味がわからず、まるで自分を疑うように観察.していたが、小さな蟻は、確かに葉と種をわざわざ持ってきて、横に置いたのを確認した。それから蝉の亡骸の近くでは、まるで相反するように、生まれたばかりの、なんだかよくわからない小さな幼虫が、蟻の集団に襲われていた。

蟻の魅力は、機能美だと思う。無私であり、迷いのなさ。それでいて、昆虫ならではの不思議な直観が働いている。たとえば長い棒のようなものを運ぶとき、一匹が端っこに噛みついて、運ぼうとするが、重すぎて、動かない。すると、すすっと別の蟻が来て、反対側を持つ。見ていたとは思えない早さで。実際、仲間が困っているのを、目で確認したりはしていないと思う。そういう回路ではなくて、状況によって、体が正確に反応している。虫のみならず、動物、植物、森羅万象、生きとし生けるものすべてが有している、直観的感応力だと思う。もちろん人間にも備わっているものと、確信している。頭よりも先に体が動くような場面は、意識していないだけで、それほど珍しいわけではないのだから。

子どもの頃から蟻を見るのが好きで、大人になっても変わらない。蟻の動きは、世界の感じ方を教えてくれる。蟻は人間(観察者)によって態度を変えたりしない。蟻を踏んでも、蟻は人間を恨まない。蟻は人間という観察者には、気づけないようなシステムのなかに存在して、世界を構築しているから。同じことが、人間にも言える。人間は、自然を愛することはできても、逆らえなし、恨めないし、抗えない。人間が自然に逆らうようなことをしていれば、蟻が人間に気づくのと同じで、生命の秩序が崩れて、自滅の道を辿るのだと思う。そのことは、直感的にわかる。蟻と人間との違いは、そのようなシステムのなかに存在している理由のことを、考えることができること。自分をミクロにしてみたり、マクロにしてみたりして、自然に同期したり、心を運動させることができること。それが人間の大いなる可能性。
 
蟻の営みを、人間(自分)が見て、どう感じるか。僕は蟻による蝉の葬儀を見て、ある私的な記憶が結びつき、そのあと、幼虫を襲う残酷な場面を見て、ちっぽけな自分史と、壮大な生命の世界が交錯した。その接点において、本質の陰影を見たような気がする。言い方を変えると、美しいと思った。
 

 
 
 

2013/07/15

カムイ


雷雨のさなか、ヒグラシの大合唱が響いてきた。まるで天空に鳴く、ワッカ・ワシ・カムイ(水のカムイ)。

遠雷が響きはじめると、空(犬)が極端におびえはじめる。あれは動物ならではの、研ぎ澄まされた感受性で、神威(カムイ)を感じているのだと思う。

【カムイ】(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。

犬が雷鳴や地響きにおびえるのは、その音の正体がよくわからないからなのだろう。吠える対象を失い、おそるべき強大な暗力の存在だけを感じて、その支配力から逃れようと、だからパニックになる。これは人間でもよくわかる。脅威に対して、原因を探り、分析を繰り返し、安定をはかる。雷のことを知らない赤ちゃんは、雷ではなく、轟きに泣く。現代科学は雷がどういうシステムで発生して、なぜ起こるのか、その知識を、万人で共有している。だから犬のように混乱はしないのだけど、世界はいつだって混乱している。

時計を分解しても、時間のことはわからないように、メカニズムを知ることと、本質を知ることはまるで違う。暑い日に打ち水をしたときに、なぜ空中に虹が発生するのか。その仕組みを知ることはできけど、そのときの虹との関係のなかで生まれている、心の動きを説明できないのなら、その手法で虹というものの正体を知ることはできないと思う。

人間とは根源的に、時間的存在であるとしたら、カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。時間をかけて、時間に許されたものの御影(みえい)ではないだろうか。人間の手で作られたものでも、何千年、何百年と受け継がれてきたものには、カムイが宿っている。そうでないものは、崩壊しているのだから。



追記 2014.3.9

ある日、首輪のついた黒い犬を見かけた。うろうろしている背中がとてもさみしそうで、あれは捨て犬ではないだろうかと、ずっと気になっていた。保護しようと思ったけど、夜はどこかにいなくなる。冷たい雨の夜だった。ふと強烈に思い出した。いまどこで、なにをしているのだろうか。おなかが空いてはいないだろうかと。

犬は言葉を使わない。即ち、概念のない世界に生きている。彼らはわたしたちを、どういうふうに見ているのだろうか。どう見られているのだろうか。わたしたちは言葉から生まれて、つねに概念に囚われている。動物は毎日、新しい太陽を見ている。人間は夜がすぎれば、朝が訪れることを知っている。夜が終われば朝が来る。だけどそれだけで、太陽を知っていると言えるだろうか。はじめて太陽を見るような、あの感動はどこにいるのだろうか。わたしたちの目は、なにも見ていないし、なにも知らないのだと思う。この雨に震える犬は、きっとわたしたちを、世界から見つめている。

翌日、黒い犬を保護した。カムイと名付けた。

カムイはまるく、自分を包みこんで眠っていた。冷たい雨の夜、自分はこの姿を幻視した。カムイを保護して何人かに、そんなに拾ってばっかりいたら、そのうち家が捨て犬だらけになるよ、と言われた。それを冗談と受け止める余裕はあるけど、すこしさみしい気持ちになってしまった。世界中のかわいそうな状況を救うことはできないし、そのような積極的な仏心が、自分に備わっているとも思えない。ただ、出逢ってしまい、宿ってしまう、心象世界での約束というものがある。そこにたいして、自分をごまかしたり、いいわけを探したりということは、自分にはできない。

ようするに、自分を守りたいのだと思う。死守したい真空があり、その裂け目に潜んでいる神秘が、天命を握っているのだと理解している。ひとりの人生には限りがあるのだから、縁があれば、迷わずひきこめばいいのだと思う。たかが捨て犬が、わたしたちの三次元空間に、新しい座標軸をひいてくれることがある。カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。


『俺は、すべての神秘を発(あば)こう、宗教の神秘を、死を、出生を、未来を、過去を、世の創成を、虚無を。幻は俺の掌中にある』アルチュール・ランボー「地獄の季節」

『あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ』宮沢賢治「ガドルフの百合」


追記 2014.3.26

カムイ(犬)の飼い主が見つかりそうにないので、うちで飼うことにした。

公共機関でもネットでもオープンにしたし、新聞(アドネット)にも載せた。コンビニにもずっとポスターを貼らせてもらっていたし、猟友会にも探してもらったから、捨てられたのは確定だと思う。

手に負えなくなったら、捨てればいいと思っているんだろうな。誰かが面倒みてくれるだろうと、勝手に思っている。捨てられたものの気持ちや、後のことなんて、考えられないのだろうか。人間(自分)は。
よくある話だし、自己愛を重ねたり、感傷的な気持ちに溺れて、酔っているつもりはないけど、空やカムイは、探してもらえない悲しみ、疎外の反美学を背負っている。言い換えれば、孤高。それでも空(くう)とカムイ(神威)は、人間を恨んだり、憎んだりしていない。

カムイは噛み癖がひどい。

見ただけでは安心できないので、噛むことによって、その歯ごたえで世界を知り、確かめようとする。甘噛みだけど、牙がささるのでけっこう痛い。これはどうにかしなければと思って、いい方法を知って、鹿の角を与えてみたら、角の形におびえていた。目から鱗。斬新だった。おもしろいので、手に持って揺らしたら、角に向かってワンワン吠えている。いまはもう慣れてガジガジ噛んでいるけど、はじめて見る形そのものに、なにかを感じていたんだろうと思う。レイチェル・カーソンなら、センス・オブ・ワンダーと呼んだろう。

概念があったら、こんなことはありえない。でもまだ純白な子どものころなら、人間でもありえる。空も鹿の背骨の形を怖がっていた。モノだから、噛みついたりしないから大丈夫だよ、という理屈は、動物には通らない。人間が、成長するに従って太くなるパイプ(回路)とは、違う回路で世界を感じているから。



再追記 2014.3.26

鹿の角が一晩でこんなになってしまった。カムイと鹿の角はよほど相性がいいらしい。もっと角を手に入れないと。でも鹿の角のような、形そのものに神気が宿っているものって、探すと見つからない。ケセランパサランもそう。出逢いはいつもセレンディピティ。




話の角度が変わるけど、上の写真は夕方に撮ったもの。下の写真は朝に撮ったもの。まったく同じ場所。カメラのことはあまり詳しくないので、オートフォーカス。ほんのすこし露出過多の、いつも同じに設定にして、フラッシュが焚けないようにしてある。

朝と夕で、これだけ色が違う。

もちろん写真が目に映ったそのままの色ではないとしても、普段の目は時間をともなっているので、光の波長の違いが、よくわからない。こうやって見て、はっとする。裏を返せば、こんなふうに確認しないと、はっとできない。人間が時間だから。

カムイは(自分の神話のなかでは)時間的制約から放たれた存在なのだけど、人間は暗室という外部装置(カメラオブスクーラ)によって、はじめて自分の存在を確認できる。

モネの連作を思い出していた。

ルーアン大聖堂は、光によって存在感を変える。見るタイミングによって、見え方が変わる。モネの無意識は、このことを丁寧に伝えずにはいられなかった。人は見たいように、世界を見ている。だけどほんのすこし角度を変えれば、見え方は広がる。多面的に世界を見て、やっと物事が俯瞰できる。そこでやっとスタート地点、ほんとうの豊かさに出逢う旅が始まるのだと思う。

色というのはほんとうに不思議で、人間の思考では底が見えないような奥深さがある。その色にどういう意味があるかというよりも、むしろ、なぜそのように見えているかを考えたいと思う。意味を超える神秘への理解は、日々の生活に哲学の種をもたらしてくれるから。