2014/07/21

神輿渡御

剣山に。神輿を舟にみたてて、標高1955mの山頂まで担ぐ神輿渡御が行われる特別な一日だった。


今年はかつげなかったのだけど、神輿が山を登ったり降りたりするのを見ていて、ヘルツォークのフィツカラルドという映画を思い出していた。巨大な船で山を越えるという映画。CGではなく、本物の船で山を越えている。監督がなにを描きたかったのかは、そのシーンだけで伝わってくる。人間は夢を現実にしようとする。


神輿渡御は人間が主体ではなく、山が主体になっている。夢を現実にする映画ではなくて、現実を夢に変換してくれているリアリティがある。祭りはその象徴であり、交流の美学なのだと思う。自然を越えようとすると、語り得ないバランスによって、越えようとする粒子そのものが、内部破壊されてしまう。大昔の人間はそのことを直観していた。


世界は人間が思うようにはできていないことを、山という存在は大いなる沈黙で教えてくれている。山とは沈黙という構造のピラミッドなのだと思う。


山はただ山と呼ばれているだけであり、山らしく動かずに、ただ言語の限界を輪郭として、そこにある。然はなにも答えてはくれない。だからこそ、すべてを受け入れてくれる。






2014/07/16

石の声



最近、河原でよくこういう石たちを見かける。

置き手紙みたいで、胸がときめく。メッセージを感じてしまう。たしかにそこにいた人のぬくもりがあり、形そのものの神秘性もある。作った人はそこにいなくても、時空が違うだけで、意思は残っている。儚くて、いまにも壊れそうに、あやうい。

天文学的な要素や呪術性はないにしても、表現のルーツって感じがする。たとえ作家が此の世にいなくても、残された作品に意思は残っている。そこにいたぬくもりを、すぐそばに感じることができる。その意思を継ぐものがいる。いつの時代にも必要な意思(魂)なら、何世代にも渡って受け継がれていく。表現ってそういうものだと思う。河原の石碑のように、誰が作ったかとか、ほんとうは関係ないのだと思う。積みあげた石そのものに宿る意思は、自由だと思うから。

たとえばこの石は勝手に立ちあがって、こんなふうになっちゃったんだよって誰かに言われても、その人を愚かだと、笑い飛ばしていいのだろうか。もしかしたらこの石たちは、こんなふうに立ちあがりたくて、その石の声が聞こえる人が、その通りにしてあげたのなら、それは石そのものの念動力(テレキネシス)であり、総和的な自然の表現。人間も自然の一部であることを、立ちあがった石は証明していることになる。
 






2014/07/13

関係性

これからの時期は野菜がぐんぐん育つので、畑の水やりがうれしい。打ち水も楽しみだ。陽光に向かって水をまいていると、虹ができる。

最近東京で大きな虹が出たそうだけど、その虹を見せたのは、なにものなのだろうか。もしも人々が野菜なら、虹を見せてくれたのは、時間の流れが違う見えない存在と言える。人間は野菜の動きを目で追えないのだから。時間の流れが違うもの同士は、相対的にどちらかが見えない存在になりえる。

蟻や野菜が人間を把握できないように、人間にも把握できない存在がある。私たちは、世界をありのまま見ているわけではなく、自分たちが見えるもの、見たいものだけを見ている。それで世界を知ることにはならない。だけど見たくないものを見なければならないという考え方も、すこし違うと思う。見たくないという前提に、フィルターがかかっている。

自分という色メガネを外せば(外そうと試みて、内的世界を注視すれば)、やがて意識が透明になって、関係性だけが見えてくる。社会的束縛を受けない関係性の世界には、見たいものとか、見たくないという価値判断すらつかない原野が広がる。その関係性の糸には、強すぎず、弱すぎず、切れない程度の絶妙な緊張感があって、その緊張とは、畏れだと思う。

本質的な姿には綺麗とか汚いとかないのだから、ペルソナが強い人は拒否反応が出ることもあるとは思うけど、そもそも自然の畏れから沸いてくる力は、恐ろしくても、美しい。暗くても、深い静寂があり、呼吸が深くなり、沈黙に飲みこまれて、言葉を失ってしまう。でも時間はかかっても、どこかに安心する要素があるので、言葉を失った余韻のなかで、新しい自分(自然)を取り戻すことができる。

東アフリカの原住民が、日の出に太陽を崇拝することを知ったユングは、「太陽は神様か?」と聞いたところ、ばかなことを聞くなという顔つきで否定されたという。「太陽が昇るとき、それが神様だ」と老酋長は言った。原住民にとって「神」とは、世界との関係性のことであり、状況だった。

「私」との関係性こそ神だとしたら、畑に水をやるときに、喉が渇いた野菜と、水を与える自分との間に、ふいに出現する虹は、自分にとっての神さまの姿。押しつけられた神ではなくて、そのリアリティに基づいてなら、八百万の神々は、確実に存在している。具体的なリアリティと普遍的なリアリティが一致するところに、接点があるのだと思う。

畑に水をまいていると、元気になる。元気になるというのは、気が元に戻るということだから、乱れていた状態から±0に変位したということ。喉が渇いた野菜にとっては「私」が雲になって、雨を降らせてくれている状態、即ち私は一時的であれ、「天」の状態になる。その関係において、生命力がゼロポイントにて流通するのだと思う。

なにも考えずに水をまいていれば、なにも起こらない。(喉が渇いたのだろうな)と思うからこそ、流線を描いて向こうに落ちる水が、こちらの乾いた心にもしみてくる。潤った葉に寄り添う、その一つの水滴は、私と世界の合わせ鏡であり、社会的束縛を受けない関係性だけを映している。思う力というのは、距離や境界を消してまう。自他が消滅した空間にのみ、魂(仏性)の交流がある。自分が世界に対して、透明になっていく。そのかぎりなき透明さの向こうで、八百万の神々は祝福してくれている。 その祝福のことを、美と呼んでもいいのだと思う。

そろそろ水をあげようかなと思っていたら、雨が降ってくれた。そういうこともある。
 

 
 
 

2014/07/05

影響

ある日、夕刻の空が赤く染まった。いつもは青い相が重なり合う時間帯なので、不思議に思って気になっていたら、今、世界ではイスラム教徒による断食月(ラマダーン)と知った。世界人口の4分の1くらいの人々が宗教的行事を行っている断食月には、そういう不思議な現象が起こってもおかしくないと、NY在住の方に教えてもらった。なるほどと気持ちがおさまった。

天空の不思議に合わせて断食月が設定されているのかもしれないし、断食月に合わせて、天空が不思議を表現してくれているのかもしれない。どちらでもなく、どちらでもあり、人智を超えた領域において、互いに影響しあっている。

天に向かって静謐な時間を共有できる喜びや平安は、あらゆる宗教や人種を超えて繋がっている。影響とはどちらが与えて、どちらが受ける関係というよりも、見えない力を互いに共有する共振増幅作用なのだから、響き合う影の光源とは大日如来であり、アッラーであり、GODであり、太陽であり、どのように考えてもいいのだと思う。現象は宗教を超えた場所から発生しているから。




2014/06/25

見つめるもの、見つめられるもの

空が空を見ている。

空(犬)はシャイなので、ふだんはそばにいないのだけど、突然トコトコ歩いてきて、じっーーと上目遣いで見つめてくる。ふだんはシャイなのに、この場合は絶対に目をそらさない。だから、あ、散歩か、ごはんかな、とわかる。そして行動する。犬は言葉を使えないけど、念動力(Telekinesis)が使える。意思の力だけで、物体(私)を動かしている。

この力の発動は、対象(私)との目に見えない関係において成り立つ。(私)が念に気づかなければ、力は生まれていない。念は思考を喚起させる。犬が見つめているな、と、ここまでは誰にでも受信できる。その後の思考力が、現象を誘い出す。それは犬の力でもあるし、同時に(私)の力でもある。この関係を「約束」と呼ぶことにする。捨て犬と私には、出逢ったときにこの約束が成立している。わかりあえなくても、その約束という場のなかで、流通する力がある。約束だけでは力は生まれないけど、約束という場で働く思考の自由は、エネルギーを外的世界に変位させる。

言葉によって規定されてしまった世界は、言葉を使えない。だから常に念を送っていて、約束が結ばれて、思考によってエネルギーが生まれるのを待っている状態だと言える(色即是空)。近すぎて見えないけど、心とからだも約束をしている(空即是色)。


 数日後、ちょっとしたアクシデントで左下眼瞼を挫滅、涙小管が断裂したので、車に乗せてもらって、徳島県立中央病院、深夜のERへ。翌日を待って緊急オペ、一晩入院して、昨日帰宅。ER、縫合、手術台。はじめての経験が一度にやってきた。涙小管に糸を通す処理が難しいらしく、三人がかりで二時間の手術。局所麻酔で左目だから、精神的にきつかった。ホワイトアウトのような二時間を過ごしたあと、大部屋の病室で、窓の外の眉山を見ていた。まさか入院させられるとは思っていなかったので、なにも持っていなかったけど、なにかする気もしなかった。どこからかテレビの声が聞こえてきた。内容はどうでもよくて、音楽を聞いているような気がしていた。
 
大病院のような異空に突然ほおりこまれると、自分がなにものかなど、どうでもよくなってくる。世界と寸断されたような気がしていて、それで残された右目で、山ばかり見ていた。山はなにも言わないけど、心を落ち着かせてくれた。山の下で移動する車や人が、蟻の営みのように見えた。山は不動だった。そのまま泥のように眠った。目が覚めると、左目の視界が回復していた。両目が使えるだけで、遠近法が立ちあがる。山がぐぐっと近づいてきて、森に抱かれているような気がした。自分にだけは嘘をつくなよ、と言われているような気がした。正直に生きろよと、耳元で囁かれたような気がしていた。

左目に涙がたまる。

ERの人に左下眼瞼を縫うのはすぐにでもできるけど、切れた涙小管がふさがってしまい、左目からだけ勝手に涙が出るよと言われて、入院がどうしてもいやだったので、別にそれでもいいので縫ってくださいと言ったけど、まだ若いからと断られた。振り返ると、医師の言うとおりにしてよかった。いまは糸が入っていて、涙が出口を失っているので、悲しくもないのに、左目に涙がたまる。私の意志とは関係なくたまる涙の意味とは、「私」が悲しみを見ているのではなくて、悲しみの方が「私」を見ているからだと思う。左目は人知を超えるもの、大いなる存在(神即自然)の声を聞く右脳と直結している。アクシデントにはそういう意味がある。

悲しみが私を見つめている opampogyakyena shinoshinonkarintsi
悲しみが私をじっと見つめている ogakyena kabako shinoshinonkarintsi
 (マチゲンガ語) バルガス・リョサ「密林の語り部」より

悲しくさせるものを見て流す涙は、こちらの意思が関与している。泣きたくて泣いている。そういうものではなくて、「私」が関与せずに、たまる涙がある。遠くの山を見ていて、なんだかよくわからないのに、ふと泣けてくる。これは年をとったからではなくて、世界の感じ方が変わったからだと思う。言い換えると、子どものころに持っていた内なる自然を取り戻したから。自分に素直になると、大いなる意思の方から、私にむかって響きかけてくれる。古典芸能から読み取れるように、太古の人は、この声を聞く力を持っていた。大いなる意思に導かれていれば、「私」など必要がなかった。私の声(私が私に命令する)を持つようになってから、大いなる声と混同して、奢り、自分もその一部である自然を支配しようとして、堕落した。混乱を立て直すには、まずはありのままの自然に対する敬意から、すべてをはじめないといけないのだと思う。


また空が空を見つめている。
空が空をじっと見つめている。
涙がたまっているように見えたのは、気のせいだろうか。

2014/06/15

必然の糸

天気がいい。屋根の上にふとんを干せる日は、それだけでうれしい。太陽の光を吸ってふわふわになると、雲のうえに乗っているような心地が得られる。ささいなことなんだけど、こういうことに感慨を受けるようになってきた。

年をとったからというよりは、世界の感じ方が変わってきたからだと思う。近すぎて見えなかったこと、世間には見向きもされないような、当たり前で単純なことに、意識が向くようになっていた。以前はあまりそうではなかったから、変化を見つめずにはいられない。リアリティだと思う。なにが原因で燃えているのかわからないような火事を安全な場所で眺めるよりも、自分で薪を手配して、着火して、一瞬として同じ形なく燃えあがる炎を、煙が目に染みたり、水が抜ける音が聞こえたり、火の粉が飛んでくるような具体性を通して、内なる世界との関係においての、現象との距離を確かめたいという思いが、いつのまにか芽生えていたのだと思う。

自分が変わる(変わらざるをえない)節目というものがある。幼少のころ、誰にも言えないようなこと、出逢いや別れ、痛みや哀しみ、環境の変化。いろんな要因が重なっていて、ああ、たぶんあのころだよなと、人生が交響曲だとしたら、それぞれの変調のタイミングを思い出せる。ただ振り返ると、あれはなんだったんだろうと不思議に思うことはある。

2011年の3月、思いきってアトリエを大阪から徳島の神山に移した。11日後に大震災、原発事故が起きた。そのときにはうまく把握できなかったけど、極私的な変調と、自然の現象だけではない、ただならない出来事がリンクしていた。世界の感じ方という内的世界と、変わらざるを得ないという外的世界の状況が、折り重なって存在していた。人間の意志をも支配している必然の糸があるとしたら、その糸を「私」はどう編んでいくのかという哲学が必要だった。

世界と私はけして切り離せない関係なのだから、自分の本性の根底に降りていくときに、世界の感じ方(愛し方)も変わっていくのは、ごく自然なことなのだと思う。内なる目で外的世界を見つめるとき、覚悟を決めている創造主の気配に出逢えることがある。それは幻覚ではなくて、内部に映し出される宇宙の構造だと思う。現実に起こることは、きっと内なる育みを投影している。




2014/06/05


密林の絵を描き進めている。こっそり教えてもらった屋久島のガジュマルの森で、整備されていない野蛮な蜘蛛の巣のような場所。特になんでもない構図の取材写真の一枚が光って、どうしても描かなければならない気がしているので、描いている。誰になにを言われようが、内なる声だけには逆らえないので、自分でもよくわからないままに手を動かしている。だから不安も大きい。

モチーフに迷うこともないし、絵筆を動かしているときも葛藤はないのだけど、手を止めて、ふと自分の絵を眺めるときに、いつも暗礁に乗りあげる。未熟さによる絶望は、意志の力でかすかな希望へと昇華できるのだけど、「なぜ描くのか」「なにをしているのか」「なんのために」という巨大な壁は、高すぎて登れそうもない。

『よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ』

ふとダヴィンチの言葉を思い出して、鏡を持ってきて、背中から絵を見ていた。欠点はよく見えるけど、壁の正体はわからない。そのまま関心はカムイの方に向かっていた。犬は自分をどう見ているのだろうかと、顔の前に鏡を立ててみた。

カムイは退屈そうに、鏡に映る我が姿にはまったく興味を示さなかった。しかし鏡ごしに映る自分を見ていた。目が合ったときに、はっとした。見られるものが、見ているものを観察していた。カムイにとっての最大の関心は、生命線である飼い主。どのような姿をしているかなどに興味を持つのは、自然を切り離し、野性を失って、その代償に「私」を獲得してしまった人間だけなのだろう。当然といえば当然なのだけど、目から鱗が落ちた。左右逆転の世界から、黒い犬に見つめられていた。

悩んで学んで、三十を過ぎてから油絵をはじめた。スタートが遅かったのは幸いだった。技術を覚えるたびに、確かな充実があった。押しつけられた貧困は我慢ならないけど、自ら引きこんだ貧しさは豊かだった。その豊かさのなかで、目覚めていく感覚があった。夢ではないなにかが現れた。仏僧は色のついた砂で曼荼羅を描き、完成したら吹き消す。不毛のように見えるけど、その儀式は、一人の人間の限界を、限ることができない方向に広げてくれている。夢ではないなにかとは、たぶんその方向に向かって伸びている、影のようなものだと思う。

人が手段を探すのは、不確かな領域に確実性(手応え)を与えたいからだと思う。たとえば路傍の石でさえ、内なる力で結ばれれば、霊性を帯びる。物質的な価値は、その人の意識を通して変容(メタモルフォーゼ)する。科学では測定できないその魔法を確かめたいからこそ、手を動かしているのだろうと思う。ダヴィンチはこんな言葉を残してくれている。

絵画とは、あらゆる素晴らしい事物の創造主を知るための手段である。





2014/05/17

禍時


陽が伸びてきた。

朝の斜光は黄金、夕刻は銀色を感じる。朝陽はとてもやわらかくて、繊細。夕刻は崇高な気がする。どちらもやさしい。力が漲ってくるのは朝だけど、夜を迎えるための藍色の世界には、足音を立てないように、そっと階段を下りていくような静けさと平安がある。沈黙の色というのか、たかが人間がなにも考えてはいけないような、厳かな空気がある。

ある風が強い日、日中は樹々が揺れているのを眺めていた。窓ごしに見ていると、風は直接体に当たらない。でも窓の音や動きで、風景は暗示されて感じられている。やがてぼんやりしてくると、樹々が自ら揺れているのか、風によって動かされているのか、どちらなのかよくわからなくなってくる。そしてなにかが現れてくる。

昨晩も風が強かった。深夜、犬を連れて走ったけど、息もできないような向かい風に、恐ろしくなって、途中で引き返してきた。枝かなんかが、飛んできて、突き刺さりそうな気がしたから。森は暗く、恐ろしい声でうなっていた。(いますぐ引き返せ)と言っているのだと思った。でも月がいつもより綺麗だった。ある地点で、大杉の隙間から、月が見える。この月がとても神々しく、美しい。杉の大木が揺れていて、ミィーミィーと猫のように鳴いている。無名(謎の獣)が枝を渡る。その背後に、黄金が射す。銀色の夜が月に裂ける。自分にしかわからない、ある地点に限られている。そのお気に入りの風景は、いつでも思い出せる。

その夜景を描きたいとは思う。でも未完成の絵がたまりはじめているので、我慢している。絵肌を気にするようになってから、かなり制作が遅くなっている。制作に集中できても、絵肌や細部に凝り出すと、絵は果てしなく遠い。でもそれでいいと思う。それがいいと思う。いつか死ぬのだから、じっくりいきたい。絵は生きて呼吸している。

古家や古道具がそうだと思うけど、手をかけ続け、まなでて、眺め続けたり、使い続けたりしていると、やがてその物体に、なにかが宿る。それらしい顔をしてきて、見るものを見つめてくる。そこまでくると、物体は見せ物ではなくなり。量産できなくなる。河原で拾った石を、部屋に飾って眺め続けていれば、石は物質的価値を超えて、ただの石ではなくなってくる。

お気に入りの石や流木を拾って、なんとなく飾る。名も無き草花を、生ける。そうして眺めていると、自然はなにかしら、答えてくれる。透明な風が体を突き抜け、(気に入ってくれて、ありがとう)と言っているのがわかる。本人にしかわからないような美しさを感受する機微のまなざしは、きっと社会の偽善も見破る。


青い時間がやって来ると、音楽をとめる。すると川の音に合わせて、カエルの声が聞こえてくる。オタマジャクシは川の五線譜に描かれた創造主の音符だと思っているので、カエルの合唱は生命の成長の徴(しるし)。沈黙の色は、オタマジャクシのころには聞こえなかった音を、崇高な時間に乗せて届けてくれる。

青い時間の崇高さって、(これからあたたかくなるというのに)行ったこともない極北の時間に繋がる。静かで、やわらかくて、やさしくて、厳しくて。沈黙って、きっといまここに在る場所から、空間も時間も持たない場所へのうつりかわり。無限って不死だから、どこか暗黒の地のイメージがある。底なしで恐ろしいのだけど、同時に究極的幸福で、杉の奥からかすかに漏れてくる、月の光のような安らぎもある。

『生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間も持たない心である。こうした心は無限の拡がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である』Krishnamurti

青い時間に、金色の蜘蛛が顔の前にすっと下りてきた。米粒くらいの、高貴で小さな蜘蛛。なんとなくうれしかった。金色の糸を編んでくれたらもっとうれしいのだけど。あの極小の蜘蛛は、金色の糸でインドラの網を編んでくれるんじゃないだろうか。結び目は美しい水晶の宝珠が縫いこまれている。ひとつの宝珠に他のすべての宝珠が映りこみ、すべての小さな小さなひとつぶの水晶のなかに、宇宙そのものを表現している全体が含まれている。


闇が近くなる青い時間を禍時(まがとき)と呼ぶらしい。黄昏時(たそがれどき)とも言うけど、それはたぶん、まだ夕焼けの名残りの赤さに注目した表現だと思う。深い藍色が広がるその時間は、古来より魔物に出会いやすいと考えられていた(逢魔時)。だけど深い藍色が広がる時間に出逢えるのは、魔物というよりも、霊性だと思う。すっと天上から下りてきてくれた金色の蜘蛛に魔性があるとしたら、それは災いを起こすものではなくて、見えているものに、目に見えないものを結びつける力であり、河原で拾った石に唯一無二の魂を宿す霊性。深い静けさや安らぎは、目に見えない幸福だと思う。

『あなたのすべての幸福は、たとえそれがどんなものであれ、その原因はあなた自身であり、外部の物事ではない』Ramana Maharshi






2014/04/17

月蝕

右手を負傷。その日は月蝕だった。

絵筆を握れないのはつらい。毎日していることが、突然できなくなると、なにをしていいのか、最初はとまどってしまう。ふだん、どれだけ右手(利き腕)に依存していたか、よくわかる。

左手の生活は、細かいことがむずかしい。歯磨きや食事。それでも、しかたがないなと割り切ってしまえば、新鮮で、工夫する楽しさがある。じたばたしても、どうしようもないのだから、憤りや義務感のようなものからは、解放されている。不自由という自由、禅的生活を、獲得しているのだと思う。言い方を変えると、いままでいつも脇役だった、左手の夢を叶えている大切なひととき。左手はさぞかし、嬉しかろうと思う。

右手を怪我したその日、一ヶ所だけどうしても血が止まらない傷があって、縫うほどでもないのだけど、いくら抑えても止まらない。寝るときに布団が汚れるのはいやだなあというのがあって、すぐ近くのわりと大きな病院に行ったら、受付でいま休診時間なんです。と言われて、別の病院を紹介された。止まらないので
血のついたタオルをまいていたけど、こちらの状態を目視確認することもなく、矢継ぎ早に別の病院を紹介されたので、もう、いいや、と思った。腹が立ったというわけではなくて、来るんじゃなかったと自分に後悔した。(天から)自分でなんとかしろ、と言われているのだと思った。

クイックパッドという止血テープを貼って、今はなんとか止まってくれたが、昨日の朝からパンパンに手が腫れてきて、右手が石のように固まったので、もしや、と思って、固まった指の間に、鉛筆をすっと差しこんだら、ぴったりはまる。油絵は無理だけど、手首を曲げないで波のように陰翳をつける素描(スケッチ)なら、鉛筆と手が固定さえされれば、腕の動きだけで絵が描ける。さっそく弥勒菩薩象を写仏した。

すこしの時間でも、仏を描ければ、左手の夢を叶えた一日は、安らかに成仏してくれる。仏さまは生きているのでも、死んでいるのでもなく、永遠かと言われれば、そうでもない。生とも死とも、どちらともつかず、私たちの罪や願いを一心に背負ってくれていて、ただただ其処にある神性であり、証。そのような時空にアクセスするには、ある儀式や整えは必要だと思う。自分にとってはそれは描くこと。祈りのことだと思う。

月蝕の傷は、左手を解放してくれた。

左手のピアニストや左足の画家もいる。たとえどんな過酷な状況においても、人はなにかを言わんと欲する。だから見るものは、試されているのだと思う。そこまでして、表現されていくものと、真摯に向かい合うことによって、世界の見え方や人生だって変わることだってある。


 

追記 2013.4/23
 
右手が使えるようになった。

勝手なもので、回復してしまうと、すこしさみしい。もうすこし左手の自由を楽しみたかった。不自由の自由。自由とは。

夜、眠るとき、肉体が束縛されるからこそ、夢を見る。暗闇は、目を奪うかわりに、耳や肌に創造力を与える。使い慣れたひとつの感覚が束縛されると、別の感覚がその仕事を補うように機能してくれる。不自由の自由は、当たり前だった日常に驚きと新鮮さをもたらしてくれた。

静かな夜の夢が、時空や理解をかるく飛び超えて、あのように自由なのだから、精神が持つ潜在能力とは、もはや人類の手に負えない恐るべき躍動だと思う。それを束縛しなければならないからこそ、肉体があると考えると、異界への扉は、感覚を通して、どこにだって開かれる。即ち、不自由だからこそ、自由がある。

なにもかも奪うような、暗黒の夜空に、美しい月が輝き、いくつもの星たちが瞬いている。それだけで、もののあはれが目前に迫ってくる。わたしたち一人一人は、あのような星のようなものなのかもしれないね、とでも、誰かに言いたくなる。明るくなると、見えなくなる。でも暗くなると、見える。

しばらく座らない間に、カムイがイーゼルの前に、居座るようになってしまった。

昨晩は絨毯をガリガリひっかいて、穴を掘るしぐさをしていた。寝床を確保しようとする動物の本能らしい。時間が止まった絵の前で穴を掘り、眠ろうとする黒い影。この構図は、なにかを暗示しているように思える。いやな感じではなく、とても優しくて、幸せな感じだ。
  
 
 
 
 

2014/04/10

地主神

夜のジョギングのときに、見ていられないポイ捨てゴミは、拾って持って帰る。犬が拾い食いする可能性もあるから。

正直、なんでオレがと思う。捨てたやつが拾えと思う。

だけど、しばらくして、夜更けた暗黒のときに、しんみりと考えさせられる。その静けさのなかに、ふっと土地の神さまを直観する。あ、そばにいるな、と思う。

住ませてもらっているし、描かせてもらっている。


そういう恩義を、風景に対して感じている。だから、なんでオレが、というささぐれだった感情は、自然に、ゆっくりと違う形の、おだやかなものに変容する。そのゆるやかな内なる曲線こそが、土地の霊力であり、神の音ずれなのだと思う。

『内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり』 空海

『恩寵とは、下降運動の法則である。自分を低くすることは、精神的な重力に反して上っていくことだ。精神的な重力は、わたしたちを高みへとおとす』 Simone Weil