2011/12/02

故郷

福島の川内村で自分の力で森を開拓して、その手で小屋を造り、沢の水を引き、田畑を耕し、太陽電池と風車で電力自給していた一家にお会いすることができた。今はキャンピングカーに太陽光発電機を積み、家バスという移動式住居によって、日本全国あらゆる場所で自然エネルギーの講座や、どんぐり食のワークショップを開いているという逞しい生き方をしている。

彼らは避難という、ある側面から見ると-(マイナス)に見える要素を、見事に+(プラス)に変換して、行動している。起こってしまったことをくよくよ悩んでもしかたない。しかしヤケになるのではなく、生きてるだけで丸儲けというこの状況を、まるごと楽しんでしまえばいいのだという覚悟の中に、満ち足りた揺るぎないものを僕は受け取った。

たとえばある小さな国の、当たり前の生活を営む人々を映した写真の中にも、なぜこのような質素なつつましい生活の中で、こんなにも幸せそうな、満ち足りた表情ができるのだろうかと、その瞳が心から離れないことがある。その瞳には私たち(僕が)が失ってしまいかけている、触ると砕けて粉々になってしまいそうな、繊細なものが映っている。そのような心から離れない繊細で豊かな要素は、実はどんなところにも必ずちらばっている。見過ごされそうな小さな場面で。それをすくい取れるかどうか、だと思う。

もちろん満ち足りた表情のその根底には、計り知れない深い哀しみの土壌がある。しかし人間にはその哀しみを、エネルギーに転換する装置(力学)がもともと備わっていて、そのエネルギーは家族や友人、先人や失った命の存在によってさらに増幅して強固なものになるのではないだろうか。僕が彼らに実際にお会いして感じたのは、この-を+に変えてしまう、人間の中に備わっている自主エネルギーそのものだった。換言するなら、人間そのものが自然エネルギーであり、即ち、人間とは自然の一部であるという真実を体現しているのである。

ここ数日、もし自分が故郷を追われた立場だったらと考えていた。もし一人だったら、戻っただろう。しかし家族が一緒なら、新天地を探しただろう。このふたつの答えの狭間に、僕は故郷とはなにか、という答えを見つけたような気がした。故郷とは、人と人との断つことのできないつながり、離れがたい結びつき、それは家族であり、友人であり、先人であり、失われた命。そういう目に見えない絆、責任感の中に、目に見えない故郷があるのではないだろうか。故郷は目に見えるものと、目に見えないものと、ふたつある。どちらかが欠ければ、どちらかを強烈に求めてしまう。戻れないからこそ、望郷の想いが募るように。海外にいるからこそ、日本を憂うように。そういう人たちと、共有して、分かち合いたいものが、たしかに僕の中にも在る。

ソーラーのらや http://solar-noraya.com/

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