2011/12/22

神の粒子

日常的に当たり前に接している「情報」。常に観測者である人間はこの情報というものを、物質とは考えていない。もしくは考えられない。なぜなら「情報」は私たち人間の意識から生まれ、観測者である私たち人間という場でしか通行できず、反映(投影)されないから。光は人間(観測者)以外の場、人間の外に反映(投影)されているので測定できるが、「情報」は真逆、人間(観測者)に向かって反映(投影)されている。だから当然、測定しようとしたその時点で、パラドックスが起きる。しかし光だって最初はエネルギーをもった粒の集まりとは考えられず、どこかで視点の転換があったはず。色眼鏡を外し、視点さえ変えれば、本当の姿は見えてくるかもしれない。

情報は過去や未来からもやってくるし、スタートする前にゴールしていたりする。したがって光よりも速い。科学の常識を覆す光より速い「神の粒子」とは「情報」のことであり、その物質?は、探せば探すほど、遠くなる。観測しようとした時点で、場の状態が変化してしまうからである(シュレディンガーの猫)。神の粒子を捕らえる方法はただ一つ、私たち人間が場である以上、観測する側と、観測される側の立場の反転しかない。たとえば、実験のことを知らない自然な状態である人間を使って、人間以外の別の生命体に測定を依頼するしかない。こんなことができるだろうか?このへんが三次元体である人間の思考の限界で、科学の臨界点ではないかと思う。しかしこれが測定されて証明されれば、四次元の設計図ができる。すなわちプラモデルのような構造ではない、リアルな宇宙の本性を理解する手がかりになりえる。

情報には二種類ある。ひとつめは近代(科学)以後に作られたもので、もうひとつは近代(科学)以前に存在していたもの。たとえば爆発寸前であるオリオン座の左上の赤い星、ベテルギウス。この星は640光年離れているので、今現在、目にしている光は640年前のもの。すなわち室町時代の光であり、このデータは、近代以後にこの星に与えられた情報である。しかしベテルギウスには、ベテルギウスという名前をつけられる以前の、その星そのものの存在が放つエネルギー(情報)がある。その情報を開示したのは、光である。光によって情報が開示され、その開示された情報を観測して、近代(科学)によって新たな情報が与えられる。したがって、人間が観測する物質は、常にWイメージなのである。近代はイメージを二重にして都合良く世界を支配してきた。だから近代が崩れれば、その本性が見える。まずは事物の仮面をはぎ取り、近代以前の古代の情報にコミットする以外に、私たち人間の進歩はないのだろう。

情報を人間の意識という場を使って時空を自在に移動する、光より速い物質と考えると、シンクロニティは筋が通る。精神世界で言うところのアカシックレコードを設定しなくとも、そもそも情報は光より速いのだから、人間が観測できる唯一の場所が「光より速い物質が存在してはいけない世界」である以上、人間の外には、存在しない。確実にあるのに、確実に測定できない。しかしその力によって目に見える世界は作られている。これはパラドックスではなく、もちろんカテゴライズシフトしていないので精神世界でも宗教でもなく、言うなれば破壊された科学(近代)の破片に映しだされた真実なのである。

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ここ数日、自分の体験をもとに起こった共時性に関する謎の考察を深めようと、量子力学の世界を調べていた。本を読んだわけではなく、ネットで検索して誰かが書いたブログなどを読んだだけだが、とてつもなく魅力的であると同時に、量子力学の世界そのものにネクタイを締めすぎたような息苦しさを感じて、途中で投げだしてしまった。物理を理解するセンスがないのだと思う。しかし大きなヒントだけは拾い集めることだけはできたので、その破片を使って自分でパズルを組み立ててみることにした。したがって上記の考察はすでに誰かが違う形で、もっとわかりやすい言葉を使って理論立てて説明していることであることは間違いないと思う。

それでも自分で考えてみたかったのはなぜかというと、その方が「おもしろい」し、ワクワクするからである。老子のタオ(道)のように、詩的な言葉で表現するのが、もっとも真理に近いのだろうと思う。しかしそれもしたくなかった。その方法を選ぶ表現者がもっとも多いし、楽に思えたから。楽で大多数が群がるものは発見がなくて、つまらない。ややこしいことや苦手なことに、知らなかった自分を発見することの方が魅力がある。

物理が嫌いで赤点ばかり取っていた小さな脳味噌をあえて壊れかけている科学(近代)に突っ込んでみたのは、ワクワクする気配をその洞窟の奧に感じていたからだと思う。実際そこには新しい発見があった。自分の中にある自分を壊してくれる、新しい自分の価値観の種を見つけて植えること。その土壌を育てること。それはこれからの時代にとっても必要なことではないかと、自戒をこめて感じている。だからこうして、少なくてもいい、一人でもいい、誰かに、伝えたい。そしてなにより、芸術とは、哲学そのものであり、生き方だと思うから、みずからも考えざるを得ないのだ。

原発の問題をとっても、政治の問題をとっても、一筋縄ではいかないところがある。ひとりひとりが、多面体で物事を見つめたうえで、考え抜き、行動しなければいけない局面が、これからもっと増えてくると思う。そういうときに一番大切なのは、受け身ではなく、冷静に、しかも瞬時に情報を俯瞰する筋力を養い、常に「自分」で考えることだと思う。「自分」は心と躯(からだ)でできている。近代(科学)というバベルの塔は、神の怒りを買って壊されたのではなく、頭だけを使いすぎた設計図そのものに計算できない歪みが生じていた。現場では壁に亀裂が入っていたが、そのことに監督と作業員は気づきながらも、パテを埋めてごまかしながら建て続けてしまった。そのことに原因がある。これからは躯が教えてくれることに耳を傾けながらも、カテゴライズされた世界に逃げて味方を集って囲いを作らずに、小宇宙ではなく、大宇宙である自分と戦っていくことが必要なのだと思う。

大乗仏教という「神の粒子」は、時空を超えて私たちに「煩悩即菩薩」という言葉を送っている。「悩む事が即ち、悟りを開くことである」と。悩むのは、楽しい。

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