2012/01/21

人間の舟

炎がピタリと静止したような、不動明王の憤怒の表情を見ていると、眺めているだけでは抑えられないものが心の奥から沸いてきて、素描せずにはいられなくなる。幼い日を思い出しているような初々しいこの気持ち。このへんの感覚が、自分にとっての表現の初心、ルーツなのではないだろうか。怒りもまた、仏性。鬼もまた、仏の化身。たとえば落石の下敷きになった人が目の前にいる。助けたいと思うのが慈悲、仏心。しかし穏やかな優しい気持ちだけで、その重い石を取り除くことができるのか?本当に彼を救いたいのなら、迷いなく憤怒の形相に化身して、手を汚してその石を動かさなくてはならない。

森の奧に静かに鎮座する、巨木のような仏像を見ていると、眺めているだけでは抑えられないものが心の奥から沸いてきて、素描せずにはいられなくなる。自然に畏れ(おそれ)と憧れを抱いていた幼き日を思い出しているような、粛々としたこの気持ち。このへんの感覚が、自分にとっての表現の愛心(まなごころ)ではないだろうか。抑えられない怒りの奧にあるのは、きっと仏心。穏やかで、なにがあろうとも動じない、静かな大海があり、その海に方向性があるからこそ、その表面はときに化身となって荒ぶる。

その荒ぶる波のせいで、人間の舟が転覆することもあるのだろう。そこで私とあなたが海に投げ出される。舟は完全に沈み、二人の躯は衰弱していく。死を目前にして、小さな浮き輪が突然目の前に流れてくる。一人なら、助かる。二人なら、沈む。そこで私(あなた)はどうするか。誰も見ていない場面で、どうするか。望んで身を沈めるか、それとも浮き輪を奪い合うか。あなた(私)が親でも子でもないとしたら。私(あなた)が許せないような悪人だったとしたら。内なる仏性は、普段の日常に潜む、このような場面の中で日々、試されているのだと思う。ときには鬼に。ときには菩薩に。

仏も鬼も、どちらも自分の中にいて、理不尽に、矛盾しながら、共存して、揺らいでいるような気がする。高島野十郎はベトナム戦争もまた、慈悲である。と言った。僕はまだ、この言葉をわかったようなわからないような、中途半端な気持ちでいる。



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