2012/02/12

ガドルフの百合

夜毎、宮沢賢治の朗読を聴いている。本で言葉を目で追って読むのとは違って、朗読で耳から聴くと、頭に浮かぶ絵が、ある一定の速度を保つので、紙芝居のように浮かぶ映像の流れに心地よい負荷がかかり、まるで暗がりにひっそりと上映される闇映画を見ているような新鮮な気持ちになれる。それにしてもこの人の文章には、心の奥の奧を照らす、なにか特別なてがかりのようなものがある。危険なのに、暖まる、触ると大火傷を負い、死に至るというのに、虚しさに震える心を照らし、暖めてくれるような救いの火がある。まるで炎のような斬り方だなあと思う。

特に気に入って何度も聴いている「ガドルフの百合(ゆり)」という作品。ガドルフという旅人が旅の途中で嵐に逢い、誰もいない黒い家で一夜を過ごすという短い話なのだけど、そこで出会すビジョンというものに、幻想的とか、非日常とか、宇宙的という、いくら言葉を積み上げても、もの足りない普遍性がある。何度聴いてもピタッと自分に張りついてくるというのか、予言的というのか。すべてが残像のようでいて、リアル。しかしあらためて本で読んでみても、同じ感動は得られなかった。おそらく宮沢賢治さんの作品は、自分にとって、耳で聞く方が吸いやすいのだろうと思う。

ガドルフは最後にこうつぶやく(おれの百合は、勝ったのだ)と。ここで物語を超えて、すべてから解放される。最後の最後に、この世の虚しさから抜け出した上で、大きく自分を広げていく魔法。小栗康平監督の「眠る男」で、主人公がブロッケン現象に映った自分の影にたずねた言葉、「埋もれ木」の少女のラストカット、タルコフスキー監督の「ストーカー」の最後の最後で、足の不自由な娘がテーブルの上にあるコップを触れることなくスライドさせるシーン。それらの人生を揺るがす忘れられない映像が、(おれの百合は、勝ったのだ)。という男の確信に満ち満ちた言葉の上に重なる。宮沢賢治は一本の類まれな映画を撮っているような。言葉を使ったのは、当時映写機がなかったからではなく、それが賢治のままならなさ、世界と自分の距離を埋める最良の手段であり、残像のあいまいさを記録する最良の道具だった。だから賢治はその時代に生まれた。そういうことなのだろうと思う。「ガドルフ」という名前、冒頭から出てくる「曖昧な犬」、そして物語を無限に向かって誘導して、伸びていく「百合」。それらすべてが確かに自分の心の奥にいて、雷鳴を待っていた。本当の暗闇を知っている人はみな旅人であり、ガドルフなのではないだろうか。心の奥に黒い家があり、疑うことなくそこに行けば、曖昧な犬がいて、それぞれにとっての百合に出会える。

一晩でも山で一人で野宿したことがある人はわかると思う。夜山は、一切の光を奪い取る。目を瞑っているのか、開けているのか、そんなこともわからなくなるような心持ちになる。そんなとき、もうすっかり見ることをあきらめて(諦)、暗闇にまるごとの自分を放り投げてみると、木々のさざめきや、遠い川のせせらぎや、虫の声が、いつもとは違う質感で聞こえてくる。かっと目を開いたまま、暗闇を見つめて、そのような音色に集中していると、なにやらひとつの物語が目の前で進行しているような気がしてくる。そういう物語の語り部は、心の奥の奥に抱えている虚しさや刹那に対して、とてもおおらかで、優しい。そして目に見えない物語には、目に見える物語だけを信じている人たちに対応するコードが存在していない。だからちぐはぐで唐突、期待に答えるような展開がない。しかしその声を聞き取れるような形で翻訳する人たちがいて、翻訳してきた先人がいて、これからもい続けるだろう。宮沢賢治はまぎれもなくその一人で、作者ではなく、作品として生ききった(逝ききった)人だろうと思う。

宮沢賢治は、耳で聞くことを強くお勧めします。


0 件のコメント:

コメントを投稿