2012/10/11

聖マタイの召命

カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)の「聖マタイの召命」。ユダヤの人々から税を徴収する取税人マタイに向かって、イエスがついて来なさい、と声をかけるシーンを描いた傑作。 最近になって画面左端のうなだれる男が聖マタイであると位置付けられてきたけど、それまでは自分に指を向けている髭を生やした初老の男だと言われていて、そのように説明され、信じられてきた。いまもなお、初老の男だと疑ってやまない人たちが大勢いて、この絵を飾っている教会の神父さんも、いまだ理解を崩していない。でもこの絵画の生命線である、召命するキリストの目と指の先が、初老の人を通り過ぎているのはなぜだろうか。

うなだれた男は、まだキリストの存在にも召命にも気づいておらず、だから目立たず、金勘定に没頭して、世俗の影を帯びている。カラバァッジョはこれから陽の当たる、その改心と大いなる気づきの予感の塊を描いたわけで、光が当たっている場所だけを見ていると、その真意には気づくことができない。思いこみが、空間(キリストの視線と指の先)をねじ曲げてしまうから。

先入観というものは、その判断をなににゆだねているかによって、それそのもののの持つ生の力、存在の理由を破壊することがあると思う。外部要因に依存しているか(絵を見る前に、横に書いてある説明書きを読まずにはいられない感覚、不安の裏返し)、内的要因に依存しているか(受け取ったそのままの感覚を信じようとする直線的な力、本能)、常にその両方の感覚をバランスよく整理するか(自分すら俯瞰する視点の獲得へ)。なにより恐ろしいのは、思いこみによって世界がねじ曲がり、もとに戻せなくなることだと思う。スポットを浴びている世界だけではなく、その影を帯びて見えにくくなっている現象にこそ、美しさが宿っていて、そのことを人間が人間に対して暗示できるのが、芸術なのだと思う。それはただの綺麗事や、自分の立場を正当化するための正義、肯定や否定の力学だけでは計りきれない、なにもかも見通した恐るべき狂気の世界でもあり、言い換えれば、人間の限界を示しているのかもしれない。でもその哀しみや絶望のなかに、果てのない無限の宇宙の種を蒔くような、そのようなことは、学にはできないことだと思う。



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