2012/10/19

異株同根

ずいぶん前から、背伸びをしてゲーテの色彩論とダヴィンチの手記という大作を読んでいる。どちらもひじょうに難解で、後戻りして読み返すのでページが先に進まない。もともと読むのがひどく遅いのだけど、この二冊は、さらにさらに牛歩の歩み、一日五行くらいしか進まないことが頻繁にあり、霞の千里のような見通しに、絶望を抱き、自分の小ささを感じている。しかも何度読み返しても、なにが言いたいのか結局よくわからず、ちょっとずつ、しかたなく栞を前に進めているという口惜しい状況なのだ。でも読んだつもりにだけはなりたくないという気持ちがある。ちゃんと自分の頭で咀嚼したうえで「やっぱりわかりませんでした」と二人の前でひざまずきたい。これが僕なりの矜持だ。
 
だけどこの二つの著書はひじょうによく似ている。このことは僕のリアリティなのだから、自信を持って言うことができる。ダヴィンチが色彩論、ゲーテが手記と言われても、まったく違和感がないし、どちらが書いたものか、読んでいてよくわからなくなる。これは二人は同じ井戸を掘っていて、同じくらいの深さにいるからだと思う。これに似た気持ちを、キースジャレットとグレングールドの弾くバッハを聴き比べていたときに感じたことがある。どちらが弾いているのかよくわからず、聞けば聞くほど、差異はなくなり、そのような興味を打ち消すほどに、ようするに、キースでもグールドでもなく、どちらも、バッハだったのだ。

まったく違う人生を歩んでいるつもりでも、まったく違う井戸を掘り進んでいるつもりでも、同じくらいの深さなら、その二人は、出逢っているのかもしれない。そういう現象(phenomena)、または出逢いを、読み手であり、聴き手である自分は、じっと見つめているのではないのだろうか。そういうふうに考えるようになった。だとしたら、二つの著書、二人の巨匠、そして二人の音楽家が伝えているのは「人生は、君の想像をはるかに超えて、豊かになれる」という、可能性(横穴)のことなのかもしれない。そう思うと、難解で、読みにくく、簡単にはわからないこと、そして二人の差異はなく、そもそも比べるモノではないという予感に、合点がいくのだ。
 
                            ★
 
写真は太龍寺で見た異株同根という珍しい根っこ。杉と檜の根が長い年月を経て、まるで申し合わせたかのように一緒になっている。
 
 
 

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