2011/08/27

生まれいずる悩み

昨日、ふと有島武郎の「生まれいずる悩み」という小説が無性に読みたくなって本棚を探したが、なくしてしまったようで見つからなかった。たえず物持ちを少なく、という習慣があるので、度重なる引っ越しの際に処分してしまったのだと思う。それでもどうしても気になって検索していたらネット上に公開されていたのでそれを読んでいた。http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/1111_20600.html 

はじめて読んだのは美大に入学してすぐのころだったと記憶している。タイトルだけは心に残っていて、その内容を忘れてしまっていたのだけど、冒頭の「私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた」で始まる作者の懺悔のような独白から、「君」と呼ばれる画家志望の青年の複雑な心境を一瞬で伝える「どうでしょう。それなんかはくだらない出来だけれども」という言い回しまで読んだとき、この小説に書かれているすべてのことが、心太(ところてん)のように記憶の箱からするすると湧き出てきた。こうなるともう、読み進めることが既知の事項をただただ確認することだけになるのだけど、そういう確認作業をするシステマティックな脳味噌のどこかで、細くて、今にも切れそうな回路の糸が、もぞもぞとミミズのように蠢いているという、頭の中を掻きたくなるような、奇妙なざわめきというか、痒みのような異物感があった。

そして読み終えてしばらくしたあと、ある極私的な記憶が蘇ってきた。それは奇妙な偶然の一致の記憶だった。そして今になって唐突に思い出したその記憶のことを考えているうちに、そのときにはわからなかった、その偶然の一致の意味が解けた。自分にとってはとても大きな問題なのだけど、あまりにも極私的なことなのでここで言葉にして昇華するのは逡巡するのだけど、たしかに、たしかに、解けたのだ。それはようするに、その記憶とこの本の内容が、なんの関係もないように見えるのだけど、実のところ本人にはうまく把握できないような複雑な経路で絡み合いながら繋がっていて、「ふと」思いだす。という直観という形を借りて、そのほぐれが解けていったのだと思う。読中の妙なざわめきは、その糸が複雑な回路を辿るときに生じた胸騒ぎだったのだろう。

ふと思い出す、というのは、きっかけが必要だと思う。そのきっかけとは、直観という名前を借りているけど、その正体とタイミングはあらかじめ決まっていたような確かなもので、化学反応のような必然なのだと思う。その直観の火花が、潜在意識が淡々と流れていく日常から丁寧に拾い集めていた情報や言葉でできた、大きくて燃えやすい知識の無秩序な束に、火をつける。そして野火のように風を受けて広がった炎は、顕在意識に気づきを与えたうえで、脳内を焼け野原にしてくれる。野火は知らず知らずに溜まっていた洗脳をも焦がし、まさにこれから、という芽が広がろうとする、肥えた畑と可能性の種を与えてくれているような気がする。

この小説を始めて読んだあのときには、微塵も想像すらできなかったであろうことが、現実に広がっている。その現実の有り様そのものが、「きっかけ」の正体であり、タイミングなのだと思う。

すべてをなげうって芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。と述べる作者は、最後に「君」の背中を押さなかった理由をこう述べている。

「それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶--それは痛ましい陣痛の苦しみであるとは言え、それは君自身の苦しみ、君自身で癒さなければならぬ苦しみだ」

背中を押したその先が、生である保証はまったくない。むしろ、そうでないことの方が多いのだろうと作者は考える。そう考える冷静と刹那が、苦の中にこそ生があるという尊厳の細部を、漁民の生き様をしつこいくらいに描写するという形で試みているが、その試みが逆に、この小説全体に宿る、懺悔のような、祈りの気配を際だたせ、すっきりとした読後感や、単純な答えを拒んでいるように思える。現実には作者である有島武郎はモデルとなっている木田金治郎に、上京して絵の勉強をしようとするのを制して、故郷(北海道岩内)に留まって描き続けなさいと助言をしている、そういう事実もまた、興味深いものがある。

その夜、寝支度をしていたら、大きな虫の音が聞こえはじめた。やけに近いなあと音を辿っていたら、洗濯場に一匹の鈴虫がいた。毎晩聴いているはずなのに、そのときだけは特別な音色のように聞こえた。いつもとは違う心の在り方が、聴覚を狂わせたのだ。それはまるであの世からの呼び鈴のようだった。あの世とこの世が、すれ違ったような気がしていた。



2011/08/05

光明

高千穂に行った。なんとなく以前から気になっていた、聖地を一本の矢で刺し貫いたような直線、レイライン。鹿島神宮から始まり、皇居、明治神宮、富士山、伊勢神宮、吉野山、高野山、剣山を通るそのレイラインの終点に、高千穂はある。地図以外の情報を一切頭に入れないままに、なにも期待せず、導かれるままにその終点を目指していた。

バイクの野営旅で疲れはピークに達していたのだけど、国見ヶ丘の壮大な雲海に迎えられ、高千穂に入った途端にいつのまにやら疲れが蒸発して、躯が喜びはじめて元気が戻っていた。道の駅に辿り着き、看板を読んで神話の里だと知る。なんだろうこの雰囲気。大昔にここで栄えた、小さくて豊かな文明が確かにあったという説得力に溢れていて、それらを裏付ける遺跡群が丁重に受け継がれている。ここはどことなく偶然辿り着いたアトリエ、神山の風景に似ていた。細胞が喜んでいた理由は、その風光明媚による視覚情報の恩恵だけではなく、我が家に帰ってきたような単純な安心感で心が笑っていたのだ。

弾丸ツアーだったが、急ぎ足でひと通り土地を見て回った。やはりどこに行っても、ホッとする。気持ちがよく、知らない土地に懐かしさがある。もし自分が地図のない時代にここに辿り着いたのなら、この辺に家を構えようと試みたのかもしれない。温泉に入ったあと、路肩にバイクを止めた。太陽を隠した濃い霧が空一面に立ちこめ、すべてを一瞬にしてリセットしてしまうかのような力強い光明を放っていた。

むずかしいことはなしにして、とりあえず旅っていいなあ、と思った。




2011/07/26

千年

福岡県立美術館と石橋美術館、両館同時開催の髙島野十郎展を見に行った。野十郎の血縁の方とお会いして、原画も見せて頂いた。おそらく1920年前後に描かれた初期のものらしきその作品は、ヨーロッパ渡航直後に大量に捨てられた作品群の生き残りだった。渡航後に明るい色調に変わるので、作品を破棄することによって、それまでの自分から脱皮を計ったのだと思う。サインがなかったため出品されなかったらしいが、それはこの作品が未完成だったからだ。もしかしたら野十郎は未完の絵が世に出るのを望まなかったのかもしれない。しかし僕はこの絵に宿るエネルギーのほんの入り口だけでも、多くの人に見て欲しかった。だから血縁の方にお願いして、写真を一枚だけここで公開させていただくことにした。僕はこの作品に対して小さな責任を負うことによって、間接的にもっと野十郎に近づきたかったのかもしれない。

美術館に展示されているものではなく、本物の作品をこの手に抱いたとき、絵筆の先に集中する野十郎の背中がはっきりと見えた。それはとても鮮明だった。僕は絵を見ている肉体から魂が抜け出して、彼のアトリエを窓辺からそっと覗いている小鳥になっていた。

野十郎はいまだ謎が多い。今回、その謎を解き明かしたり、ますます複雑にさせる、新たに見つかった作品や写真が多くあった。今後、彼の研究が進み、知られていなかった作品も、もっと世に出てくると思う。彼が田中一村と並び、世に迎合せずに画業に邁進した、日本を代表する本物の芸術家であることは間違いないのだけど、今回の展示のように、新たな作品や写真が見られるのなら、僕はもっと多くの人に野十郎という名前を知って、作品に触れてもらい、彼の名を世に知らしめたいと思う。「そんなこと、どうでもいいんだよ」と天から彼の笑い声が聞こえるのだけど、油絵の特性を研究し尽くし、長持ちするためにさまざまな工夫を施して「自分の絵は千年は大丈夫だ」と発言した彼の隠された意志を、僕は千年先の人たちに紡いでいきたい。




2011/07/13

矛盾

真夏のような強い陽射しの午後、川で身体を冷やしていたら、鹿の角を見つけた。角とはいっても、頭頂部の骨がついているので、頭蓋骨だ。周囲からは絶対に見えない、川辺の窪んだ小さな谷のような場所にあり、ずっしりと重かった。角以外はなにもなく、おそらくは一ヶ月ほど前の悪魔のような濁流によって他の部位は流され、重い角のついた頭頂部だけが流されずに此処に留まったのだと思う。地元の人に見せたら、生え替わりに落とす角だけならよくあるのだが、鹿の骨は珍しいとのこと。また鹿は死に場所に水場を選ぶ習性があるという貴重な話を聞くことができた。食べられるくらいなら、流骨になった方がいいという本能なのかもしれない。あらゆる野生動物は年をとって身を守る力がなくなると、敵から見つかりにくい場所を探し、そこで身を隠して静かに死を待つという。

この話を聞いたあと、制作途中の油絵を見ていて、はっと気づかされたことがあった。この絵は崩れ落ちそうな巨木の根本にできた小さな洞窟に向かって、一匹のうなだれた鹿が歩いている背中が中心になっている構図だ。なぜこの構図に惹かれているのかよくわからないまま描き進め、描く前から「暗示」というタイトルをつけていた。題名が先に降りてきたので気になっていたのだけど、その謎が今回の鹿骨のおかげですっかり解けた。これは菩提樹を見つけた仏陀のように、渡世を彷徨ったあげくにやっと死に場所を見つけて、まさにそこで骨を埋めんと最後の力を振り絞る老鹿の背中だったのだ。とにかくその洞窟にさえ辿り着きさえすれば、悟りと永遠の安らぎを得て、死をもって大きく世界のシフトが変わりそうな予感がある。そういう此岸と彼岸の裂け目、まるで女性器のような天の岩戸を感じさせる半開きの時空のシンボルとして、多くの取材写真の中からこの構図を潜在意識が選びとり、水辺で風化しようとしていた鹿の骨が手がかりになって、顕在意識にまで押し上げられたのだ。

表現とは人間が生きるために最低限必要なことではない、という事実を、忘れないようにしている。百姓や漁師の方がはるかに尊いと思っている。未曾有の天災と放射能という人災は、ジャックナイフのような鋭さでその事実を、あらゆる角度から、表現に関わる人たちの喉元に突きつけたはず。それでもなお、意味などないはずの表現に理由をつけるとしたら、その人が、その人なりに、希なる望みを託し、それなしには生きていけないから、生きていたいから、死にたくないから、続けているのだろうと思う。僕はそうだ。それなのに老鹿の背は死を誘い、涅槃を暗示している。描かれたものには、ちっぽけな自分の意志など、まるで反映していない。そういうつじつまの合わない矛盾を見つめたときに、人知を超えた無限なる英知の介在を感じてしまう。




2011/07/02

写楽の猫

眉山の東、東光寺というお寺に東洲斎写楽の墓がある。ギリシャで肉筆画が見つかって研究が進んだことから、ほぼ阿波徳島藩の能役者である「斎藤十郎兵衛」が写楽の正体と確定して、この墓が写楽であることは証明されたのだけど、ずいぶん前から僕はこの墓が本物かどうかには興味がなく、関心はもっぱら写楽の墓に住む、人なつっこくて目つきの悪い三毛猫の方に集中していた。

世に出た写楽は姿を消したが、彼はただ斉藤十郎兵衛に戻っただけで、斉藤十郎兵衛が残した写楽という魔法は、見上げれば手に届きそうな距離で、今もなお星のように輝いている。十郎兵衛は本当に幸せな人生を送ったのだなあ。人目を気にせず、すやすやと眠る写楽の化身を見ていると、そう思わずにはいられなくなる。


追記

2011年11月20日、いくら探しても、写楽の猫はいなかった。住まいにしていた小屋もなく、お寺の隅に手作りのお墓があった。大きめの阿波青石をぽんと置き、そのまわりにぐるりと小さな石を並べて苗を植えただけの、素朴で可愛いお墓だった。墓石にはなにも書かれていなかったし、住職に聞いたわけではないのだけど、この石の下に写楽の猫がいることはすぐにわかった。もし僕が飼い主だったら、これとまったく同じような墓を作ったことだろう。

どうしてもお墓の写真を撮りたくて、我慢できなくなったので、一枚だけ撮らせてもらった。あとで見たら、写真の右上に、大きなぼんやりとした影が映りこんでいた。僕はこの影を、三毛のものだと直観した。最後の挨拶に、降りてきてくれたのだ。この世に姿を見せることができないから、こっそり木陰でも利用したのだろう。本当に嬉しかった。

近くにあるなじみの画材屋さんに行ったときは、必ず東光寺に足を伸ばした。はじめて逢ったのは、真夏のひどく暑い日だったと記憶している。二年前か三年前、そんなもんだったと思う。写楽の前で手を合わせていると、とぼとぼと足元にすり寄ってきた。片眼が半分つぶれて、ひどく目つきの悪い猫だなあと思ったが、とても人なつっこく、離れても離れても、とぼとぼついてきて甘えてくる。年のせいか、歩くのがしんどそうだったので、何度も何度もなでてやって、これでおしまいさようならと手を振ったものだ。

今年の夏は日陰で休んでいた。僕に気がつくとすり寄って出てきたが、墓前の水を頻繁に飲み、直射日光が痛そうに思えた。長生きしろよと思ったが、初秋にもう一度逢って、それっきり先に逝ってしまった。



再追記

2013年1月18日、図書館に行ったついでに隣接している王子神社へ。ここは「猫神さん」の愛称で親しまれているところで、実際に人なつっこい黒猫がいる。その子を触って遊んでいたら、後ろの藪(やぶ)のなかからミャーミャーと鳴き声が。声は聞こえど姿はあらず。よくよく探したら、目に傷を負った子猫が隠れていた。寄ってはこないのだけど、こちらに向かって、なんどもなんども鳴いている。この子は写楽の猫の生まれ変わりだと確信した。魂にこんにちは。また逢えてうれしい。



再々追記

2015年9月5日、最近よく三毛猫を見かける。もしかしたらずっとそばにいたのに、気づかなかっただけなのかもしれない。警戒心は強くて、近づくと離れていく。目つきが悪くて、そこがまたかわいい。あれは三代目、写楽の猫の生まれ変わりだろうと思う。根拠はなくても信じられる自由がある限り、たとえ肉体は消滅しても、永遠の命は続いていく。







2011/07/01

月兎

近隣さんのご厚意で借りた畑に撒いていた菜っ葉と大根とほうれん草の種が最近になって芽生えてきたのだけど、半分以上、いや三分の二くらいが芽生えてすぐに虫に食われて死んでいた。特に無農薬にこだわったわけではないし、手入れしなかった自分も悪いのだけど、散々な畑を見ていると、農薬なしで植物を育てるとはこういうことか、と否応なしに実感させられた。それでも最初の葉をおとりにして、何枚も食べきれなくなるくらいに生えてしまえと言わんばかりに新葉を伸ばす種がいて、そういう逞しい種を見ていると、食べる前から元気をもらったような気になる。


なんとなく穴が空いた一枚をもぎ取り、青空を透かせて見ていたら、ただそれだけのことで、なにものかに心を奪われたような、放心して、自分がちりぢりに砕け散ってしまったような気持ちになってしまった。急に視界がプラネタリウムのようになったので意識が驚いただけなのかもしれないが、無意識の方に静かに訴えかけるなにかが、確かにあった。心を奪うものには、言葉を超えた広がりがあるのだから、本当はこれ以上なにも語るべきではないのだろうけど、新葉のために、また、お腹を空かせた虫たちのためにボロボロになった葉を見ていると、その無惨な姿に、利他心、自己犠牲の精神を投影せずにはいられなかった。今昔物語に出てくる逸話、帝釈天が化けた老人を助けるために、火の中に飛び込み、自分の体を食べさせようとした「月兎」のような、捨身。死の美学。もともとそういう美学が内包されているから、心を奪われたのか、心を奪われたから、美学が紡がれたのか、どちらが先なのかは、よくわからないのだけど。とにかく自分のちっぽけな価値観を揺るがす月の兎が、一見無駄死にの、この穴だらけの暗幕の奧に見えたような気がしたのだ。




2011/06/26

ゴーヤーの花

ゴーヤーの黄色い花弁が強い風にもがれ、そのまま風に乗って、たまたま隣に置いてあったメダカの壺に落ちた。まるで一陣の風が飾り気のないメダカの壺を哀れんで、花を添えたふうに見えるこの瞬間とは、偶然に偶然が重なった瞬間を、さらに偶然に僕が目撃しただけのことで、いくら考えたところで、それ以上の理由などないはずなのだけど、なにか釈然としない。しっくりとこない。納得ができない。その一連の出来事に、見えない存在の意志が介在したような気がしてならない。

こんな些細なことが積み重なって、わからないことが、わからないままで手つかずでどんどん荒れ地になってしまう。意固地になっているつもりはないのだけど、一言で世の中ってそういうもんだよ、と簡単に言う人や、都合のよい解釈の宗教を持ち出す人もまた、信じられない。

生まれてすぐ息を引き取った赤子を抱く母親や、結婚式当日に不幸にも事故に合って式を迎えられなかった花嫁、そして震災で家族を失った人たちに、今ここに居るはずの人がいないということは、偶然に偶然が重なっただけで、意味などないんですよ。とはっきりとその人の目を見て言える人が、はたしているのだろうか。もちろん状況は違いすぎるくらいの差があって、抽象的な思考に酔っているのかもしれないのだけれど、話は逸れていないと思う。

芸術とはその答えを模索する心の動きの現れなのだと思う。水面に浮かんでいる、この偶然のゴーヤーの花のように。わけがわからないものをある角度から世間に知らせる、というシグナルのような役割。たまたまの出来事に内在している存在を、表に現す、術のこと。負荷のかかる世界を受け止めつつ、作品として変換する回路を鍛え、時流ではなく、時流の外に漂っているものを掴み取ること。すなわちそれは、どんなふうに生きていくかということを常に自分に問いかけていくということなのだと思う。




2011/06/20

アマリリス

ある夕刻、いつもの森に呼ばれたような気がした。しかもカメラを持ってこいと言う。
(困ったなあ、構えると、逃げるくせに)。そう思ったが、言うとおりにすることにした。さっきまでの大雨が嘘のように止んでいたが、すでに奧の空から宵闇が迫り始め、山々はもう、眠る準備を始めていた。


せっかくなので、入り口のお不動さんを綺麗にしてから、撮らせてもらった。この少し先に森の入り口がある。


森は睨みつけるような迫力で、ときおり日本刀のような銀色を撥ね、「来るなら切るぞ」と鞘に手をかけているように見えた。森に入る手前で、一枚だけ写真を撮らせてもらったが、受け入れられているような気はしなかった。なぜ呼びつけておきながら、はねっかえすような態度を取るのだろうかと、引き裂かれるような思いを抱えながら、滑らないように注意して石段を上がろうと足をかけたとき、左の視野の奥の方に、いつもとは違う色を感じた。それは遠目にもよくわかる赤い色だった。森が血を流していた。怪我をした。だから呼ばれたのだ。そう思った。僕はいったん森を出て、その傷口を確かめに行った。


           アマリリスだった。ああ、そういうことか、と納得した。結局、森には入らなかった。


2011/06/15

螢の火(ほのか)


螢が見えるとの噂を聞き、隣のおじいさんに場所を尋ねたところ、目の前の川で見えることがわかった。以来毎晩、螢の火(ほのか)を見ている。光が弱すぎて写真には映らないのだけど、この月下の暗闇には40~50の螢が蠢き合い、点滅している。螢を見ていると、いつも過去にタイムスリップしたような気持ちになる。夜光虫とわかっているのに、森の精霊が水遊びしているように心が見てしまい、先祖が戻ってきてくれたような気持ちにもなって、祈りを捧げているときのような粛々とした心の状態になってしまう。おそらくは研ぎ澄まされた五感と対象との間に起こった摩擦(または科学反応)のようなものによって、既に知っている情報の壁(意識)を飛び越えて、螢なんて知らなかった時代に心が勝手に歩み寄り、知覚の扉が開いたり閉まったりして、「あちらの世界」と「こちらの世界」を自由に行き来できるような、タガが外れた、時空の半開きの状態になっているのだと思う。

僕たちはいろんなことを知っている。しかし体験はときに「知っている」ことを軽く飛び越えて「知らない」世界に連れて行ってくれることがある。五感による外界への接触は、思いも寄らないタイミングで第六感というエネルギーの火花(スパーク)を生みだし、見えるものの中に、見えないものを内在させ、過去や未来へと続いているような、永遠という虚構を、それぞれの人たちの、それぞれの尺度で感じさせてくれる。こんなにおもしろいことは、他にはないと思う。

                              ★

生まれて初めて描いた油絵は、「螢の火(ほのか)」というタイトルだった。この絵は写実ではなく「創作」である。本当は螢などいもしないのに、「なんとなく」描いてしまった。改めてこの絵を見ていると、今、螢の火が外に広がっているので、過去と現在が繋がったような気がしてくる。螢の火が、太古の記憶のように見えたり、森の精霊のように思えたり、突然失なわれた多くの命が、生き残った私たちに向けて放った遺言のように感じたりするのは、そこに在るはずのないものを、私たちの脳が生み出している証なのだと思う。その生み出されるものには、どこか統一したイメージがある。みな考えることがバラバラなら、イメージもバラバラであるはずなのに。

もしも世界が決定論的自然観(神はサイコロを振らない)で支配されているならば、僕たちは今、まだ訪れていないはずの未来を、一分一秒毎に忠実に写実していることになる。未来が決まっているならば、なにかを生み出すという行為は、ただただ思い出すことと同じ意味なのかもしれない。こうやってわざわざ会いに来てくれて、個々に燻っている第六感の火を灯し、なんの見返りも求めずに道筋を思い出させてくれている魂の火に対して、唯一、残された者ができることは、五感をフルに生かして、丁重に彼らを現在に迎え入れ、鎮魂の歌を唄うことだけなのかもしれない。

2011/06/02

拝啓 高島野十郎様


もしあなたが生きていたなら、私はすぐにあなたに逢いに行き、断られることをわかった上で、弟子入りを志願して、今の私自身の心の拠り所のなさを慰めていたことでしょう。

でももしあなたが生きていたとしても、きっと私も世界も、あなたの存在を見つけることは困難だったのかもしれません。あなたはどこにでも咲いている路傍の草でありながら、同時に誰にもたどり着けないような高い山にしか咲かない、俗世から離れた一輪の孤高の花でもありました。

私もかつて、世捨て人であろうと望んだことがありました。すべてを失い、底辺で生きる人に触れ、共に在ろうと居座りました。しかしそこに居続けることができませんでした。世を捨てようという行為そのものの中に、強烈に世の中にしがみつこうとする自我を発見してしまったからです。それから私は自然だけを描くようになりました。なぜそうなったのかは、自分でもよくわかりません。あなたの言う通り、神が自分の中にあるのだとしたら、きっとその神が私の手を通して描かせたのでしょう。しかし私という自我が、その神の存在を知り、真理を本当に理解するには、今生では短すぎるように思えます。きっと死ぬ直前か、その後になって、わかることなのでしょう。

あなたは言いました。藝術は深さとか強さとかを取るべきではない。「諦」である。と。

あきらめの諦ではなく、「真理」という意味で用いられたこの諦(たい)という言葉に、私は自分を殺したあなたの、底知れぬ覚悟を感じてしまいます。徹底した写実によって明らかになるのは、月ではなく、闇。これは描こうとして描けるものではなく、あなたの献身と対象への慈愛によって、受け手である私たちが勝手に浮かべてしまった、実体のない陽炎のようなものです。私はその陽炎に「諦」を見ます。見ようとも見えないはずであるはずの、闇が、空気が、光が、涅槃が見えるのです。

あなたは死んでもなお、わたしたちと諦(真理)を結びつける手がかりとなってくれています。あなたは闇に迷って道を間違えないようにと、私を導いてくれる羅針盤であり、私の色眼鏡を外してくれる師のような存在であります。すでにあなたは私のすぐそばにいることは知っているのですが、改めて、私はあなたに会いに行こうと思います。

あなたがいない間に、世の色は少しだけ変わってしまったのかもしれません。私たちが自然の一部であるということを忘れてしまったツケが、今、あらゆる現象となって、私たちに問いかけています。あまりにも大すぎる犠牲も失ってしまいました。なにもかも失った人たちに、あなたという画家が居たことを教えたい。なにもかも失って、生きる意味を失ってしまったと思っている人たちの瞳に、あなたが愛した美しき日本の光景を写実する一筆の軌跡(奇跡)を映してもらいたいと思います。あなたの残してくれた曼荼羅によって、一人でも多くの人たちに万物に宿る霊性の存在に気づいてもらい、「生きているということそのものの中に、生きるという意味がある」ことを思い出して欲しいと願います。

あなたは言いました。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」と。

一陣の風が吹き消した、あまりにも大くの蝋燭から立ちのぼる煙は、狼煙(のろし)となって、残された私たちにメッセージを放ち続けています。そのメッセージの内容は、かつてあなたが言ったことと同じように思います。私たち一人一人の中にすでに備わっている仏性を取り戻すことによって、万物に宿る霊性に気づき、共にあるという実感を抱いて生きるということ。あなたが農民に配った蝋燭の炎は、時空を超え、今もなお私の中で燃え続けています。

敬具