2013/04/24

紫の上

狂犬病の予防接種の日だったので、指定の鬼籠野(おろの)の公民館へ行った。突然やってきた捨て犬、空(くう)は、じつは拾ってから一度だけ、外で人を噛んでいる。タバコを持った手で触ろうとしたので、反射的に足を噛んでしまった。幸い顔見知りの人だったので、謝り倒して、許してもらった。もし拾う前なら、保健所行き。人間社会にとって脅威なので、静かに殺される。邪魔なので、抹殺。まるでなかったもののように、存在を消されるということ。そんなふうに人間が、なにものかによって、なにもなかったように存在を消されたらどうだろう。自分も不注意で何度も空に噛まれている。でもそれは喉元を狙うようなものではなく、遊びが過ぎたようなもので、そんなもんは数日忘れてたら、勝手にふさがる傷。それがどうしただ。外で違う犬にそうなったとしても、同じこと。自浄を鍛えるいい機会だとは、なぜ思えないのか。

偶然出逢ってしまった動物に、自分を重ねてしまうことがある。それは投影ではなくて、通じ合えないからこそ、膨らんでいく見えない世界があり、そこに自分を落とし込むということ。先に犬が死ぬだろうと思う。そのときに、幸せだったのか?と聞いてみたい。野良犬のときより、すこしはましだったか?と聞いてみたい。もし自分が先なら、しぶとく荒っぽく生きろよ、と願う。空はたしかに、自分の奥に潜むなにかを象徴している。それは声なき声のようなもので、その響きに、じっと耳を澄まして、自分なりに咀嚼して翻訳してみると、結局、自分のなかにある甘えや依存心と戦うこと、国家の嘘や社会の歪みを直視して、戦うことに繋がっている。

空を見ていると、去年、ひかれたイタチを車道に避けたときの、まるで納得したかのように、むくっと立ち上がり、トボトボとこちらに歩いてきて、こちらを一瞥した、あのやせ細った犬のことを思い出す。そういえばあのあと、撮った覚えのない不思議な写真が二枚、iphoneに残っていた。今も保管している。それは紫色の太陽のような写真で、そういえば指定された鬼籠野(おろの)の公民館の、すぐ近くにある神光寺ののぼり藤の花は、あんな色をしていた。藤の下から見上げた空は、ガジュマルのようなインドラの綱にからまって、紫上を忍んでいた。




blog 気になる出来事(2012/09/19) http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2012/09/blog-post_19.html


2013/04/21

インドラの綱

まるで地獄絵図のような、海の向こうの凄惨な場面をメディアを通して見たときに、この映像(写真)をずっと前にも見たような、そしてこれからも、繰り返し見るような、波のような既視感と未視感の入り交じったような気持ちになり、虚無に溺れそうになることがある。それはたぶん、自分が傍観者だからと思う。十年前の今日のニュースを、僕は覚えていない。ただ覚えているのは、自分事、自分で感じた痛みだけ。しかしふと、遠い国で起きた響きが、打ち寄せる波のように、自分でもよくわからない角度で、リアリティとして繋がることがある。それを昨日、鬼籠野(おろの)の神光寺の、紫色の、のぼり藤の下で感じた。

天気予報の雨が降る前に、朝からでかけた。のぼり藤の下からは、空はほとんど見えなかった。そのときの甘い香りを覚えている。あとになって、あれはいつか読んだ、宮沢賢治のインドラの綱の風景だとわかった。藤の甘い匂いは『冷たいまるめろの匂い』と賢治が表現した、天と地の汀から漂う芳香だった。そのことを、昨晩シリアのアレッポという石鹸で髪を洗っていたときに、ああ、そうか、と反芻した。それは人には説明できないような感覚。そのよくわからない感覚を、人間はがむしゃらに解こうとする本能がある。自分(人間)にそういうところがあるので、断言できる。それは把握しないと、不安だから。だけどよくわからない感覚を解きほぐすときに、インドラの綱まで解けて、バラバラに空が砕けてしまう予感がつきまとう。そうして蜘蛛の巣のように、何度も再生して、繰り返される。繰り返されていることに気づかずに、ただ刺激として慣れてしまうと、自分の頭で考えないようになる。考えられなくなる。それが自分にとって一番恐ろしいことで、人生の盲目。そういうときには、自分だけの感覚(リアリティ)を探す。

そういう気持ちになると、ささいなことで、タイミングの不思議(風)が起こって、示唆をくれる。読んだ人にしかわからない話だけど、宮沢賢治が、インドラの綱で登場させた、壁画の中から飛び出した三人の子供のこと。そういう感覚を、自分事として、見逃さずに捕らておきたいと思う。

『こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい』
宮沢賢治





2013/04/14

胡蝶花(シャガ)

あたたかかくなってくると、誘うようにたくさんの胡蝶花(シャガ)が迎えてくれる。森では一番身近な大切な白い花。いつも薪を作りにいく場所は急斜面なので、横から見ると写真のようになる。花は地面に対して垂直なのに対して、杉は地球に対して垂直。花は身軽なので重力を感じずにすむのだろう。とにかく太陽の陽射しを浴びたいわけだから、斜面は逆に好都合とも言える。シンプルで身軽な胡蝶花にとって、重力の都にすむ住人はななめに傾いて見える。どちらも素直だけど、世界の感じ方に違いがあるのだろう。
 
人間が地に足をつけた生き方を考えるとき、草花や生物は、さまざまな見え方の違いを教えてくれる。森は宇宙の広がりを教えてくれるし、石は時間を教えてくれるし、風はタイミングを教えてくれるし、水は死者の声を伝えてくれるし、炎は獣性を教えてくれる。教えられたことを、活かせるかどうかが未来に問われている。
 
 
 
 
 

2013/03/27

約束


エサを与える右手を噛まれ

買ったばかりの円盤(フリスビー)をかみ砕かれ

たのんでもいない小枝を持ってきて

はらがへってはくんくん鳴き

満腹になればいびきをかく

話かければそっぽ向き

いいから遊んでくれよと尻尾をふり

一人になればさみしがる

空(くう)よ 君はなぜここへ来たのか

捨てられたのなら恨めばいい

迷ったのなら戻ればいい

どんどん期待を裏切ってくれ

飼い慣らされるな

いつも爽快であれ 

君と僕との約束ごとにしよう






2013/03/22

家の前のしだれ桜が咲きはじめた。車を止めて写真を撮る人がチラホラ。散歩道にも名も知らぬ花がたくさんある。パックリと満開であったり、それなりに咲いていたり。色とりどり。花ってなんだろうなあ、と思う。あの色、形、匂い。なにかを表現しているのはよくわかるのだけれど『花のこと、わかった?』と聞かれると、さっぱりわからないと答えるしかない。女性的、というのはある。下手な花の絵を何枚か描いているけど、近所のおばちゃんが見に来ると、花の絵に立ち止まる。そんなとき、ああ、女性だなあ、と思う。絵によって、なにかを思い出している、というふうに思える。だけどあの色はなんだと思う。なぜそのように咲くかと思う。描いていても、よくわからない。ましてや桜のことなど。畏れおおくて、閉口してしまう。カラスウリの花のことだけは、ちょっとわかった、と言える。それは自分のなかで、密かに関係を持ってしまったから。自己矛盾かもしれないけど、関係を持ってしまったものは、うまく描けない。カラスウリの花は、途中で投げ出してしまった。

「よくわからない」というのは、僕のなかでは種(たね)のような大切な要素で、これを無理やり誰かを説得させるような力学を含んだ文脈や、科学に置き換えていると、だんだんその『なんだかわからないのだけどなあ…』と思ったときの経験から離れていく。『わからないなあ…』と思うのは、一方で強く惹かれている証拠なので、そのものとの関係(契約)を育むためには、未知で自由で個人的な領域を確保する努力が必要だと思う
。2011年3月11日のとき、その後のこと。誰しもがある強い経験(直観)をしたはずだと信じられる。その楔(くさび)は、個々の触れられない記憶のなかに突き刺さっていたもの。言い方を変えれば、種として、植えられたはず。その種が、まだ芽も見せないうちに、年月とともに、自分のなかから離れていったと感じることが、ほんの少しでもあるとしたら、その強い経験から、引き離そうとする力が、どこからか介在した、ということ。

経験とは、静かで内なる育みのなかで咲く、花のようなもの。だから、その経験から引き離そうとする力に対しては、ことごとく自分の微細な変化を注視していなければならない。答えがすでに自分のなかにあるのに、言い訳を考える時間が、経験を自分事から引き離す。そうして記憶は、確かであるはずのかけがえのないものから、ある力が加わった別の違うものへと歪められていく。当たり前だけど、自分のことは、自分からは見えない。だから対象との関係を育むこと、種から花を咲かせ果実を実らせるような内的な体験によって、『ああ、自分はいま、こんなことを感じているのだなあ…』という、誰にも歪められていない姿が、鏡によって確かめられる。だから、花を見て思い出せばいいのだと思う。見ているようで、見ていないということ。それがわかるまで、見つめ続ければいいのだ。





2013/03/15

豊かさとは

いつも使ってる市販のペーパーパレット(25枚で300円くらい)が切れてしまって、わざわざそれだけを買いに行くのが面倒で、代用に牛乳の紙パックの裏を使っていたら、これがひじょうに使いやすくて、今も何枚かストックしている。市販のものより持ちやすく、回転させやすく、正方形なので使いやすい。徳を得たようで、ちょっと気分がよくなった。なぜなら、節約でもなんでもなく、もしかしてこれは使えるんじゃないだろうかと、なんとなく試みたものが、値段をつけて大量生産されているものよりも、実際に使いやすかったから。してやったり、という気持ち。捨てられる運命に光を当てる喜びをもてたうえに、既にそこにあるものを見過ごしていて、まんまと使いにくいものを買わされていた自分を、鏡で見ることができた。

ひじょうに地味で、極私的な小さな出来事だけど、こういうささいなことに神々は宿る。お店に行くと、紙パックに注目するようになった。牛乳を見ると、白い液体の入ったパレットに見える。無関係であるはずの通路が、あるささいな発見によって、Y字路のように結びつき、関係性を持つことで、広がっていく世界がある。路傍に咲いたごく小さな青い花も、ある人にはただの青い点々にしか見えなくても、ある人にはなぐさめになり、今生の救いになりえる。もしも家族も友達も家も財産もすべて失って、たった独りで養老院を過ごす一日のなかに、春うららかに、そのけなげに咲く小さな青い花の存在に、どれだけ救われることだろう。来年も咲いておくれよ、また来年も変わらずにと、その先も、ずっとその先もと、生きる勇気が沸いてくるのではないだろうか。既にそこにあるもの、その見過ごされていく小さな姿に、結びついて広がっていく世界が、自分のなかにあるかどうか。豊かさとは、生活が楽になるかどうかではなく、たとえすべてを失っても、生きているというその身ひとつで繋がっていける、深遠な世界があることを信じることができるかどうかではないだろうか。




2013/03/13

去年から読みすすめているダヴィンチの手記。なんとか下巻半分まで辿り着いた。霞のかかった山を登っているような気持ちがある。この本とゲーテの色彩論、ソローの森の生活は、まだ読み切れていない。ネットの文章を読んだり、自分のタイミングで文を書いたりするのは、速いほうなのだけど、実物として手元にある本は、むかしから読むのがひどく遅い。理由は簡単で、すいすい読めて、ああおもしろかった、すばらしい本だったね、で終わって、もう二度と開かないような本(物体)は、そばに置いても実りがないので、買わないから。この三人の著書は特にページが進まない。この困難が、自分を著書の影へと近づけてくれる。

具体的に言うと、たとえばダヴィンチの書記、科学論、地質と化石の章。


「人間は古人によって小宇宙と呼ばれた。たしかにその名称はぴったりあてはまる、というのは、ちょうど人間が地水風火から構成されているとすれば、この大地の肉体も同様だから」

最近個人的に気になっていた五輪塔は、人間を地水火風空と刻む。ダヴィンチの文章に照らしてみると、人間から「空」が抜けてる。それはなぜだろうか。と考えることができる。著者の言う人間は、生物としての人間。一方五輪は、供養塔。生仏としての人間(魂)の塔。肉体はすでにない。だからこそ『空(くう)が一番上に必要になるんだなあ…』と、人には言えないような、孤高の納得が、関係ないはずのダヴィンチの手記から得られる。それは正解のない、溜息のような答え。だけどこのように交わされる呼吸のような想像が、著者とある通路を開いて対話すること、即ち、読書ではないだろうか。

ダヴィンチの手記、科学論の地質と化石の章は、こんな文章ではじまる。

「大地の肉体は魚類、鯨(くじら)または鯱(しゃち)の性質をもっている。なぜなら空気のかわりに、水を呼吸するから」

こんなことを彼方(かなた)から言われて、おいそれと1ページを進めてはいけない。納得できなくても、布に色が染みこむような時間を持っていれば、理解、不理解の間に、蝋燭の焔のようなある揺らぎが自分のなかに生じてくる。その揺らぎを信じて乗れば、毎日が新鮮な航海になる。その航海は、社会のあり方を見つめ、自分を見つめる旅のことでもある。著者(ダヴィンチ)の絵画の深淵は、コードのような謎解きでは絶対解けない。自分事にして、その舟で近づくしかないと思う。

人の欠点はよく見えても、自分から一番見えないのは、自分の欠点。それを気づかせてくれるものが、ほんとうの美(ダヴィンチの絵画が指し示すもの)の仕事なのかもしれない。その美に触れようとする人間のemotionが、祈りであり、救いではあるまいか。そう思う。自戒をこめて。自分の欠点について、著者は鏡を使うことを提案している。

「よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ」

これは絵についてのことを述べているのだけど、同時に精神論でもある。

鏡とは、なにか。これを自分事として引きこまないと、ダヴィンチ(美)には近づけない。彼の絵がいまもなお現代に引き継がれ、その先にも続こうとしている予感が揺るぎないのは、その作品に汚れを祓う結界(謎)がかかっているから。その謎解きは、私、や、あなた、という自立したかけがえのない個と、作品との関わりのなかでしか行われない(ただし手がかりが本人そのものの像、著者の残した文章にはあると思う)。作品を外から、科学というモノサシを当てても、誰かが書いた推論を読んでみても、ミステリーを味付けても、作品はますます屹立して、けして解けず、どんどん本質から離れていくだけ。美しさに基準や参考書は存在しない。許されているのは、自分の鏡を探すこと、人生をその鏡に映してみること。このふたつが結界を解く鍵だと思う。もはや作品とのほんとうの関係は、表面だけで終始することではなく、人生に関わってくる対話。描くこととは、目的ではなく、手段なのだと、あらためて教えてもらった。絵のことだけを言っているのではなく、おそらくすべてに当てはまること。百姓であっても、漁師であっても、浮浪者であっても。希望のなかにも、絶望のなかにも、憂鬱のなかにも。鏡とは、それぞれの歩幅で進んでいく人生のなかに、すでに見出されて、そこに在り、指針となりえるのではないだろうか。


「そんな小さな空間に、全宇宙の姿を抱えることができるなど、誰が信じるだろう」Leonardo da Vinci


 

2013/03/10

水の戯れ

ひさしぶりの雨。空と山肌が眠るように暗い色調に沈んで、ホワイトノイズを奏でる雨音が、小さな生活と住処をやわらかく綴じこめて、孤独に火を灯してくれる。
 
水の戯れはおもしろい。水を見るのが好きで、覚えている範囲で一番最初の体験は洗濯機の渦。あれを幼少のころに見ていて、あの吸い込まれるような胸のときめきが健在している。大海に溶けていくような恍惚、目眩、離人感。花とか樹とか山とか森を見ていると、見ていたはずが、見られていた、という知覚の反転体験が起きるのだけど、水はそうはならない。メッセージはあるのだけど、見られている、とは感じない。風も、雨も、雪も。瀧のように、山や谷との関係性を含めて見れば眼(瀧なら龍)を感じるのだけど、水そのものからは眼を感じない。花とか樹は、その命にはじまりと終わりがあり、骨格や皮膚もあり、生命として自立した佇まいがある。水にはそのようなとらえどころがなく、源(みなもと)としての自分を観察している気持ちになっているのだと思う。だから眼を感じずに、そのまま永遠に向かって墜ちていくような感覚になる。 主客一体、梵我一如。
 
 
 

2013/03/02

実家のすぐ近くに海があるので、帰省したときにはいつも自転車で海まで散歩に行く。その道中の河に、捨てられたボートの残骸がいくつもあって、それを見るのが昔から好きだ。苔むしていて、壊れていたり、半分くらい沈んでいたり、水中に沈みきって魚の巣窟になっていたり、先っちょだけ見えていたり。全部もう誰にも使われていない老い舟。時間を忘れて、じっと見いってしまう。なんで見入ってしまうのか。それはよくわからないのだけど、なにか目の前にあるものとは別のイメージを、舟に重ねて見ているのではないかと自分に感じる。ただの朽ち果てた舟なのだけど、あともうすこしで広大な海が広がっているという手前の、誰にも相手にされていない静かな場所で、沈むでもなく、浮くでもなく、主人を失って、捨てられて、なにかを主張するでもなく、ただただ黙って、ひっそりとたたずんでいる。
 
 
 
 

2013/02/24

ガニング・ロックス


ワイエスの『ガニング・ロックス』gunning rocksという作品。タイトルのガニング・ロックスは男の名前かなと誰しもが思うが、そうではなく、メイン州のワイエスの家の沖合にある人を寄せ付けない岩礁、島の名前。

男の名前はウォルターアンダーソン。粗野で無口で人付き合いが苦手な漁師。ワイエスはこのタイトルの習作の段階では一枚目は海辺の風景を描き、二枚目の習作は海辺に向かって背中を向けるウォルター・アンダーソンが突然登場して、彼の素描を経て、最終的には肖像画として完成させてしまう。タイトルは変えていない。なぜならワイエスにとっては、人を近づけない危険な岩礁ガニング・ロックスは、この孤高な男の横顔に相違ないから。

「素晴らしいものを見つけると私は、それをある別の思い出に直ちに結びつけてしまう。私の眼の前に存在する場面は、他の主題の広大な世界に向かって開くひとつの窓でしかないのである。絵を超越したものを私は目指しているのだ。もしそうでなかったら、すべてはあまりにも簡単だ」
 
「私の作品を身辺の風物を描いた描写主義だという人びとがいる。私はそういう人びとをその作品が描かれた場所へ案内することにしている。すると彼らは決まって失望する。彼らの想像していたような風景はどこにもないからだ」
 
アンドリュー・ワイエス

実際、一枚目の海辺の習作もガニング・ロックスではなかったそうだ。ワイエスの凄みはその匠(たくみ)にあるのだけど、その腕を使って表現しようとした世界、手を伸ばそうとしたものの遠みに僕は興味がある。ワイエスのリアリティは目の前にあるものを目の前にあるように描くことではなく、目の前にあるものを通して喚起されていく、合わせ鏡のような彼の内なる世界の影と光のこと、その写実。それは、それを感じたワイエスにしか、ほんとうはわからないはず。だけどちゃんと伝わってくるのは、彼の深い眼差しと、人知をこえた術(すべ)があるからで、換言すれば、深い眼差しによって、術(すべ)が人知を超えるからだと思う。