2014/09/06

信仰


「根」が描きたくなって、宇佐八幡神社の大楠と、焼山寺の大杉を見に行った。どちらも樹齢500年を越えるもので、宇佐八幡神社の大楠は、大きくなりすぎて参道を破壊している。鎮守の森からは、何世代にも渡って大樹が育ち続けるような場所に、神域を定めようとする人間の永劫回帰への本能が漂っている。

焼山寺で二年前に撮影した大樹の根の写真を持っていたので、持参して見比べてみた。もちろん根の形状は寸分変わらないのだけど、そのままの状態の小石まであったのには、ときめいた。度重なる大雨や嵐に耐えて、そっと根に寄り添っている。偶然が重なって移動する大きな石もあれば、なにがあろうとも、そこに留まろうとする小さな石もある。

むき出しになった樹の根には、死後の世界を感じさせる力がある。ここからは見えない地下世界へと、力強く伸びていく躍動がある。深く静かに根を伸ばすからこそ、人間の寿命をゆうに越えて、守り神として生き続ける。私たちにすこしだけ姿を見せてくれている「根」は、天と地、生と死の境に潜む、荒ぶる神の権現。人間の目は植物の動きを目で追えないほど不自由だけど、その一瞬は私の永遠なる感覚を呼び覚まし、霊性を回復させてくれている。

大きくなりすぎて参道を破壊している、宇佐八幡神社の大楠の樹の根を見つめていると、敬虔な気持ちになる。

鎮守の森は、社(やしろ)以前に、そもそもそこに在る。ほんとうは、神社のほうが大楠に干渉している。だけど人間の目には、樹が大きくなりすぎたかのように見えてしまう。

信仰や表現それ以前に、自然がある。人間だけが自然からはみだして、社会や歴史や宗教や芸術を作っても、草は何度でも生え続けるし、樹は根をはって、大きくなる。目の前のその事実にはかなわないし、手に負えないところがある。

敬うとは、自分から見えているもの以前の、見えていない自然への原始感覚を開く、鍵のような働きだろうと思う。なにも求めていないのに、自分の内側から、外側に向かって、すっと扉が開く。その扉の向こうに、吸いこまれていく純白さが、信仰という色なのだと思う。





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