2014/09/15

まなざし


犬と散歩していたら、頭上でミンミン蝉が蜘蛛の巣にひっかかった。

からまった羽根を広げて、絶叫している。見ていられないので、長い枝を探して、蜘蛛の糸を切ってあげたら、うまく飛べずに、そのまま足元に落ちて、犬が食べてしまった。なんとも言えない気持ちになった。

もしも未来を知っている「なにものか」が、こっそり事の次第を観察していたとしたら『ああ、あいつは正義感で蝉を助けようとしているが、ほんとうは蝉の寿命を縮めようとしている愚かものだ』と思っただろう。

だけど「なにものか」は、いつも見ているだけで、けして自分に干渉しない。過ぎ去ったあとで、気配だけを残す。蝉から見れば、蜘蛛の巣も、人間も、犬も、ひっくるめてぜんぶ苦難だ。その連鎖に自我は気づけない。その苦難を、断ち切ろうとしたのだから。

あのとき蝉が、最後に絶叫しなければ、自分は蜘蛛の糸を切ったりはしなかっただろう。悲鳴のように聞こえた。だから犬のことを忘れて、蜘蛛の糸を切った。蝉は犬から逃げきる可能性はあった。だから後悔はない。ただし、ここに残る「なんとも言えない気持ち」とは、向かい合う責任があると思った。

なんとも言えない気持ちとは「まなざし」によって生じている。

ここで言う「まなざし」は、自分からではなく、「なにものか」から受ける視線のことを指している。たとえば花を見つめていると、花のほうから見つめられているような気がしてくる。そのとき「なにものか」は、すでに花らしさのなかに宿っている。上の方からの異次元の光が、花に命を与えているかのように思える。

なんとも言えないこの気持ちのことを、本居宣長はもののあはれ(物の哀れ)と呼んだ。「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した。見つめるものと見つめられるもの、内と外が、ひとつになったときに、「まなざし」は出現する。ほんとはひとつに重なっていた。だから、物の哀れ。もともとひとつだったことを知り、そしてまた、離れなければならない運命に気づくのは、哀しいことだから。

「なにものか」は未来を知っている。過去と未来が、大いなる記憶のなかで、二つの世界を合わせるように、ゆれ動きながら「私」とすり合って、ピントが合ったときに、いま、此処にあるリアリティーが「まなざし」を通して、出現する。

私たちの体を形づくっている60兆の細胞は、毎日1兆個の細胞が入れ替わるという。血液は100~120日間、骨は1年半~3年ですべて新しく入れ替わるらしい。細胞学的には、数年前の私と今の私の体は、別人。自分とは、毎日すこしずつ入れ替わっている。それでいてなお「私」を「私らしさ」として繋ぎ止めている原因が、外ではなく、自分の内にある。

ほんとうは過去や未来は幻想で、毎日生まれ変わる体と、変わり続ける現在だけがあるとして、そのことを頭では理解できても、人に意識があり、意識が社会に関わっているかぎり、そのようにありのままには振る舞えない。狂人という烙印と本当の孤独に耐えうるような、超人的な思想と精神力がなければ、きっと虚無(ニヒリズム)に迷うことだろう。だからこそ人は、歴史の流れや社会全体の気配を通して、学び、悩み、勇気を出して、行動して、意識を揺れ動かしながら、自分を越えるものを敬い、こだわりを消してくれる世界に、憧れを抱く。

「まなざし」が運命を愛してくれていることを信じて。新しい存在を肯定してくれる窓が、大きく開かれていることを信じて。

内的世界のイメージと外的現象のエネルギーが拮抗すると、そこに新しいイマージュが生まれる。そのイマージュは自我を押し出すので、自分で在り続けようとするこだわりが消える。それは生と死の瞬きのような、永遠の一瞬だと思う。かつてシモーヌヴェイユが真空と呼んでいたのは、その領域のことだと思う。

魂があるとしたら、真空を通るはず。魂が真空を横切ったその瞬間に、人の感覚はもう過ぎ去ってしまった遠いまなざしを感じるのだろう。



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